2015年5月31日。
ツイッターで、評判を知り、あまり見る気はなかったものの、見たいと思い出して、これが口コミの効果というものだと思ったが、妻に相談して、一人で出かけさせてもらえた。
横浜美術館に、今日は展覧会の最終日だから金券ショップに安く売ってないかな、と思って、調べて、美術館に近所にあるのを見つけ、ただ、出かける時に途中で電話をしたら、誰も出なかった。どこにあるのか、はっきり分からず、みなとみらい駅を降りて、少し探したが、どこにもなかった。
横浜美術館の近辺も、あれだけ空き地があったのに、ビルが建った。街になっている。今日が最終日の展覧会。失礼ながら、ほとんど知らない作家。
入り口がすでに薄暗く、ロビーに映像作品が映っている。
エスカレーターで2階へ行く。この美術館の真ん中のスペースは、なんだかバランスがやや悪く、オルセー美術館の真似らしいが、うまくいっているとは思えない。
抽象的な線を少しずつ描いては、撮影する、という手法での映像作品は、線が自分で成長するように描きあがっていき、線が生きているように見えるような作品で、リズムと勢いがあって、描く行為そのものを作品にしようとしているのだろう、というのは分かり、これはやろうと思った人はすごく多そうだけど、実際にこうして作品化していくのは、とても困難でもありそうだし、そのうちに、線が自立して描かれていく、というよりは、作者自身の動きなども作品に取り込んでいくようになって(おそらくは作品は、製作年数順に並んでいるように見えた)、そして、それぞれが映像作品だから、短くても1つの作品に何分かは見るのにかかるし、今日は、出かけさせてもらったから、ゆっくりと見られた。
見ている間に寒くなって、セーターを着て、さらにウインドブレーカーも着たが、「動く絵」というような表現だけではおさまらず、その取り込んでいくものが増えていっているように思えた。それに伴って、作者の自己愛の度合いが少なくなって、もっと広い表現になってきているように思えた。
最後の「部屋と窓」は、部屋の中へ差し込む日の光、つまりは時間とか季節とか、もっといえば命みたいなものまで意識させるような作品になっていて、それも、最近は映像の解像度があがったせいで、部屋やイスなどの質感まで伝わって来るようで、キャンバスに傷をつけるように穴をあけて、その実物がそこにあったが、「光の落ちる場所」が2015年製作で、それがすごくよかったので、これから先も、この人の作品がすごくなるかも、などと雑な感想を思ったりもした。
コレクション展は、フランシス・ベーコンや奈良美智や、森村泰昌のフリーダ・カーロの作品も思いがけず見る事ができて、気がついたら、2時間はたっていた。
(2015年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。