アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

ジョージ・シーガル展−凍結された日常の記憶。−。1996.10.1~11.4。静岡県立美術館。

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ジョージ・シーガル展−凍結された日常の記憶。−。1996.10.1~11.4。静岡県立美術館。

1996年10月。

 

 サッカーの合宿の取材で静岡へ行く。午前と午後、二回の練習。その間が約3〜4時間。だいたいが街から遠くて、クルマがなければそこの、例えばホテルのロビーのソファに座りただ時間が過ぎるのを待ったりしていると、人生の無駄遣いだな。とボンヤリ思う。それを避けようとして、今回は練習場から歩いていける所に宿をとろうと思って、少し調べたら、先月のホテルがちょうど良かった。午前の取材が終わると部屋へ戻って、寝たり本を読んだりして時間が過ぎる。考えたら、いつもとたいして変わらないのに無駄な感じが少なかった。最後の取材が午前中で終わる。また美術館へ寄って帰ろう。

 

ジョージ・シーガル展』−凍結された日常の記憶。− 池袋のセゾン美術館でやっていて、見たいと思って見逃していた展覧会だ。見終わってから、感想文を募集しているのを知り、原稿を書いて送った。こういう文章だった。

 

 

『シーガルのリアル』

 

ロダンが今生きていたら、同じ彫刻を作っただろうか。あの時代に、あのような力強い肉体はそれほど珍しくなかっただろう。たくましくなくても生物としての強さのようなものがあった。それを表現したロダンの作品はリアルさを十分に持っていて、それを現代でも感じるのだろう。それから時間がたち、たとえばアーノルド・シュワルッツネッガーの体をロダンが創ったとしても、何か特殊な、何か少し変な、リアルからは遠いものになりそうだ。

シーガルは、現代の人間達をそのまま型取りした。もし誰かをモデルとして彫刻を造ったら、どうしても「より美しく」創ってしまう自分を知っていて、それでは現代のリアルにならないことも分かっていたのではないか。今さら立派な肉体を忠実に再現しても、少しこっけいなだけだ。その後、シーガルは作品に色をつけたり、技法を変えたり(パンフレットで初めて知った⋯)したが、それも時代のリアルに合わせた自然な移行だったのだろう。だからこそ、美術館の壁の向こうに本当に人がいるような気がして、ドキリとする。形がそっくりというだけでなく、たたずまいのようなものまで、そこにあるからだ。

表現しようとする人間はリアルを求める。これだけ様々なことの裏まで分かられ、いろいろな物や人がちゃかされ、その方が説得力を持つような現代でも、何とかリアルを手にしようとする。シーガルは今だにリアルを作っている。テレビでしゃべる姿を見て、ある意味で自己顕示欲のなさを感じた。そうした要素も持っている人間だけが今のリアルを手にできるのかもしれない。そう思い、東京での展覧会を見逃して残念で、その後に仕事で静岡に来て見ることができた。期待通りだった。

そして、全体を見終わって印象に残るのは人物の目だ。当たり前だけれど、石膏で型取りするから目を閉じる。それが作品に深味と不思議さを加え、そのことがリアルさにつながっているはずだ。ただ、今の時代の流れは、おそらく目が開く方向にリアルがある。もしそうなった未来の時にシーガルは人物の目をどのように開かせるのだろうか。洋品店のマネキンの無難なそっくりさというのではなく、ひきつけられるような気配を持つように、どう開くか。それを見てみたい。もしかしたら目を開くのではなく、積極的に目を閉じるといった今は予想できない方向へいくのかもしれない。それでも、見てみたい。本当は、自分よりかなり歳上の人にそうした期待をするのは自分自身にとっては情けないかもしれないが、そう思ってしまったのである。

 

 

 しばらくしてから、昔の学級文集のような素朴な装丁の薄い本が届いた。意外だったが、ありがたかった。こういう文章が、仕事にできればと、思った。

 

 

(1996年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

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