2001年4月12日。
資生堂ギャラリーが新しくなって初めての展覧会。ビルも新しくなっている。地下への階段をおりる。かなり狭く感じる。作品が見えるところに、踊り場がある。そこから角度を変えて、また降りていく。天井の高いギャラリー。豊田市立、もしくは法隆寺宝物館の設計者のことを勝手に思い浮かべる。
大きな頭をした鉄製の人形。前に折れるようになっている。3メートルあるらしい。そばにカウントの出ている鉄製の箱。それがゼロになったら、この人形は動くんだろうか。
すぐにゼロになった。がちゃん、がっー。機械音と共にゆっくりと起き上がっていく。穴を開けただけの目。やけに黒い。完全に立ち上がる。その視線の先には壁にある太陽。そこからのシャボン玉の量が増えたような気がする。
ちょとだけ立ち上がり、また前のようにものすごく深い前屈姿勢のようにかがんでいく。ただ、最後アタマをつけるまでは、ものすごくゆっくりと進み、金色のキレイな円形の板にアタマをつけるまではかなりの時間がかかる。そこのアタマにキズがあるのを、そこにある見に来た人の書くノートで知った。やたらと「ヤノベさん」と距離感が近く書いてあり、その前の東京都現代美術館の展示のことにふれる人も多く、やっぱり作家の追っかけみたいな人が多いんだと思う。アトムカーの時は両替えしてもらったことを思い出す。
もうひとり、カチョーというキューバの作家の作品。船をテーマにして、この人の作品もこの前、現代美術館にあったな、と思う。正直、個人的には、リアルさを感じられない。違う国の違う事情に対して、自分がとても無知ということもあるだろう。キューバの人が見たら、また違う感想なのかもしれない。
でも、人が3〜4人しかいないこのギャラリーで、ルノアールを見て、疲れた部分が少しほっとした。ここには自分と関係があるものがある、という気がする。
人形のカウンターは放射線を受けると、数を刻むことを知った。アトムカーなどといっしょだった。もう一度、立ち上がるのを見ようと待った。さっきよりも明らかに時間がかかった。
チェルノブイリの学校。廃虚となった場所での人形。太陽のマーク。サバイバルにこだわるというのが、観客にとっては、この当時では、ちょっとピンとこないが、今回からおそらく、リバイバルにテーマが変わっていくんではないかというヤノベの言葉の方が、今はリアルに感じる。ある意味、敏感な作家だと思う。そういえば、東京都現代美術館ではチェルノブイリに行った時のことを文章でも書いていたが、罪悪感みたいなものも感じ、それも含めて書いてあったりした。ウソは少ない方がいい。でも、きちんとしたウソもいいかもしれない。傍観者は勝手に気持ちがゆれる。
人形がもう一度、立ち上がるのを見て、そのギャラリーを出た。
(2001年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。