アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「脱・現代美術教養論」。1999.10.2~11.14。板橋区立美術館。

「脱・現代美術教養論」。1999.10.2~11.14。板橋区立美術館

1999年10月3日。

 神経のトライアスロン、妻がそう言った毎日が続く。未来は、確実に少しずつゆっくりと潰されていくのが見える気がする。階段をどんどんと妙に重い音を立てて夜の3時に降りてくると、それだけでゾッとして目が醒める。それなのに、朝起きると、母に大丈夫?と言われる。いきなりカチンと来る。それは、こっちの聞きたいことだ。

 

 母は退院してきたが、誰かがいないといけない。

 ずっと実家にいる。

 

 今週は弟は来ない。家に帰れない。10月に入った。丸2ヶ月、仕事を受けていない。物凄く狭い人間関係の中でしか生きてない。病気になってからは3ヶ月、2月も入院したから、考えれば今年1年、棒に振った。命を削られた。暗い怒り。

 

 昨日も怒った。神経が痛んでいるのは分かる。だから、出掛けよう。この2ヶ月で母を半日以上、1人にしたことはない。恐いから、戻ったらこっちも終わりだから、でも、それを母は心配し過ぎだと思っている。だから、出掛けよう。本当は、クルマで行こうと思って、夜中に地図を見て、運転が少しでも出来るようになると、見ていて楽しくなるのは分かるようになったが、ガソリンを入れた時に、ベテランの店員にタイヤが劣化してます。ヒビが入っています。少なくとも高速は走らない方がいいと思います。目を見たら、確かに商売もあるが、それにプラスして忠告な感じも強かった。だから、電車で行こう。

 

 目黒で妻と待ち合わせをした。久し振りの外出、実家の門を出て、道を歩き始めただけで肩の力が露骨に抜けていくのが分かる、こういう種類の開放感はあまり憶えがない。

 

 板橋区立美術館。レオレオーニの展覧会以来、たまに行くようになった。今回は現代美術に関する企画展、2年前も分かってたまるか、現代美術、というタイトルに惹かれて一人で行って印象が良かった、だから今回も行こう。しかも無料。そこの学芸員の説明がある時、妻はやたら熱心に聞いていたので、今回も問い合わせたが、今週はアーティストの講演らしい。でも、人の話を聞きたかった。聞く能力が日々鈍っていく恐怖感が消えない。成増から送迎バス。西高島平から歩くのは、あのすさんだ光景を思うと気が進まなくなった。駅前のマクドナルドで月見バーガーのセットを食べる。
 

 美術館の入り口のガラスにテーマの文字。脱・現代美術教養論。お勉強という感じはするが、意欲的は伝わる。2時から作家と韓国のジャーナリストの対談。それまで1階のこじんまりとしたロビーで待つ。そこに、関係者が集まって挨拶をしあったりしている。ロビーというよりリビングといった場所で、妙な距離をとった会話。なつかしい、そう思う自分が情けない。プレスルームな感じ。いつになったら、仕事ができるのか。医者に行って、後2週間様子を見ましょう、と言われる度に暗い脱力感を感じるだけの毎日。ホントに仕事をきちんと出来るようになるのか。それでなくても、仕事が減っていくだけの数年で、明るいことはなかったのに。そこにいる坊主頭でヒゲの人が気になる。酒太りで顔色が悪く、妙に威張りそうな人と話していて、必要以上に頭を下げているのを見て、似合わない、と勝手にがっかりする。その人が、2時から話すアーティストだった。

 

 郭徳俊。京都生まれの京都育ち。20代で病気をして、その後作品をつくり出す。本人が言うには、横のつながりなくて、独自のものを作って来た。七十年代に入って、日本と韓国の交流が盛んになってきたがその中にいたわけでもない。孤立していた。独りでやって来た。そんな話から始まる。
 

 郭徳俊VS 金福基

 

 1970年代の韓国の美術界は、禁欲的で白や黒ばっかりだったことも、この人の話で初めて知ったが、そういう話をしていても、僕は関係ない。日本の中でも、韓国の中にも属していない。ここまで続けていられるのは、どこにもいないで、一人でやって来たからだと思う。なるほど、と思ったが、隣の学芸員は寝ている、説明は良かったのに、ここで寝るか?と思ったら私は寝てないと言いたいような妙なうなづき方をしていた。韓国のジャーナリストは、雑誌の編集者らしい。
 

 1時間30分が経とうとしている。

 こじんまりした会場での対談はまとめに入っている。

 韓国人ジャーナリストは、自分の書いた文章を通訳に読んでもらい、それで穏やかに終わろうとしていた。

 

 郭の作品の独自性は、日本でも韓国でもない、言ってみればアウトサイダーであることが強く影響しているのではないか?つまり、在日韓国人であるから出来た作品では?といった内容だった。 

 こういうひとまとめみたいな括りをされるの嫌だろうな、と思っていたら、郭の反応はさっきより少し力の入った言葉になった。

 

 おっしゃる通り、在日韓国人という立場はあって、その思いもある。でも、アートではそういうのは一切出さないようにしてきた。それは、アートは普遍的でないといけない、と考えているから。自分の今の状態を説明するものじゃない。僕は在日のグループ展にも一切関知しない。それは、そういう理由があるから。

 僕は、僕の名前を臥せれば、地球上の誰が創ったか分からないものにしたい。人間の共通する部分、普遍性、共通するものが大事で、個々のものには意味がない、個々の事情はいい、と思っている。

 

 作品は、2年前も見たものがいくつもあった。作品の題名を隠し、めくってみるようにしてある仕掛け。でも、題名が時代のせいもあるだろうけど、ワークとかあったりして、気恥ずかしいものも目立つ。ほとんどが古臭い感じがしてしまう。その中で、草間弥生のマカロニコートは確かに、キャラ立ちしていたし、妻もそれを見るなり、あ、クサマさんだと言っていた。コハダのブラジャーを写真に撮ったものや、自分の名前で振り込みカードを作っていた豊嶋康子は、二色の鉛筆を真ん中で削るだけなのに、妙に目がいったりするリアルさがあった。

 

 山下菊二というアーティストの戦争への執着と簡単にいっていいか分からないが、それは妙な迫力をまだ感じる。

 

 その中で、確か福岡の美術館で見て、いいなと思った作家の作品があった。どこにでもありそうな日常の光景をエッジが効いた切り取り方をして、シルクスクリーンで表現したものだった。今回も窓のそばの部屋の光景をカーテンにシルクスクリーンで転写したもので、この前見たものと比べるとリアルさがイマイチだったが、別の場所で見つけると変に嬉しい。ただ、その割に、鳥洲一 とりすはじめ という名前だと覚えていたのに、妻に聞いたら、島洲一 しま くにかず という名前だった。自分がマヌケだった。

 

(1999年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

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