アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

あいちトリエンナーレ2019④。2019.8.1~10.14。愛知芸術文化センター。

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あいちトリエンナーレ2019④。2019.8.1~10.14。愛知芸術文化センター

 

2019年10月11日。

 名古屋市美術館から、愛知芸術文化センターからメイン会場に来た。ここで、いろいろな騒動があり、先日、それまで展示が中止されていた「表現の不自由展」も再開され、だから、ついさっきまでの名古屋市立美術館でも、再開された展示がいくつもあったから、それは、観客としてはラッキーだったとは思う。

 

 そして、再開後も、この場所の近辺で「座り込み」が行われたともニュースで見ていたし、何か騒ぎになったりするのだろうか、もしかしたら、妙に強い主張をして、アートとは関係なく自分の「思想」だけを語る人もいるのか、と思い、それは怖さもあったし、そういう人が実際に見られるとしたら、それも含めて貴重な体験ではあるとは思ったが、駅から歩いて、ちょっと迷って、そして、何十年かぶりに愛知県に来たから人に会えて話もして、不思議な時間でもあったのだけど、懸念していたトラブルのようなことはなく、それから、展示を見始めたのが、午後3時半くらいだった。

 

 「表現の不自由展」は、抽選で、見られるかどうかもわかなかった。それも1日に定められた時刻に、決められた場所に行き、抽選に申し込んだ上で、それで当選できるかどうかはわからず、という状況で、次は午後4時半から、その抽選に参加することができるというのだけど、それまでに、いろいろと見たいと思った。

 

 フリーパスを持っているけど、入場のたびに、それを見せることになり、そして、お土産が売っていて、そこには昨日買った弓指氏のTシャツも売っていた。その展示の交差点のような場所には、でかいスマホのような彫刻で、その画面に人の顔があって、その組み合わせで、キスをしているような作品だった。

 

 それは、展示を見ていると、その場所を通るから、何度も見ることになって、だんだんおなじみになり、そして、いつのまにか、あとになっても思い出せる作品になる。最初に、立体があって、それはミニマムというか、基本的なはったりもないような作品で、それは、いろいろな意味合いもあるのだろうけど、印象が薄いという意味で覚えていることにあり、あとになると、フォーマル な格好をした男女がこちらを向いて笑い続けている映像は、自分たちが、あさってに結婚式に出席するということもあるし、それで60分間笑うというのは、どれだけ難しいか、というようなことを思い、仕掛けもわかりやすいのだけど、それは印象に残るものだった。アンナ・ヴィット。

 

 それから、トリエンナーレのメインビジュアルになっているウーゴ・ロンディノーネの作品は、目の前が開けるような空間に出て、そこに何十体のピエロの立体が並んでいるが、それは、人間がいるかのように思えるし、それはやっぱり体の作りもあるのだろうけど、やっぱりその表情かもしれない。それは「一人の人間が24時間のうちに行う45のふるまい」を表しているというが、確かに、それは、一緒に並んで写真を撮りたくなるような作品だった。

 

 日用品が並んでいる写真が、淡々と設置されているが、その写っているものにマジックで輪郭が書かれていて、当然のように写真になってから書いていると見ることになるが、実際の物に書いている、というキャプションを読んでみても、そう見えないようにも思えるが、洋服にマジックが書いているのは、思い切ったような気持ちにもなった。石場文子。

 

 そのあとに、とても広い展示室で、田中功起の作品が並んでいて、映像で、複雑な文化的ルーツと多様な背景を持つ4人の人間が、対話や行為を積み重ねていくインスタレーション、というのだが、それぞれがかなりの時間の長さを必要とするので、全部はみられなかったが、今までの短いトンチみたいな作品の印象が強かったから、ちょっと意外だった。今はこの方が田中のテーマになっているのだろうし、そして、もっとゆっくりと見れば、ここに出てくる人たちの気持ちの変化みたいなものと、もっと一緒に歩いているような気持ちにもなれたのだろうけど、この展示も、再開されたばかりだった。ただ、こうしたドキュメンタリーは、こういうことができることに対して、ちょっとうらやましさもあったが、こうした対話ができるような場所を作る事は、とても難しいのだろうと想像はできた。

 

 こうしたインタビューが中心となっているような映像作品も多く、今はアートが、ジャーナリスティックな役割を担うようになっているのかもしれない。本来のジャーナリズム的なものは、露骨な圧力を受けやすくなっているのか、今はこれが本当という提示が難しくなっているから、アートのように、さらに複雑な提示のされ方のほうが、本当に近づけたりするのかもしれない、というのは、全体でも思ったし、かなり印象の強いトリエンナーレになったと思う。それでも、圧力がかかる時代にはなってしまった、とは思う。

 

 アートにも、そんなに、というか、ほぼ展覧会を見にこないような人たちにシンプルだけど、膨大な圧力をかけられて、本当なら普通にみられた作品が見られないのは見られない、とは思っていた。「不自由展」の抽選のために、集まって、その階を1周回って、リストバンドをつけられ、そして、結果を待つまで、また展示を見た。

 

 10分遺言は、楽しみにしていたが、たくさんの画面で、文字が作られ続けている部屋にいると、落ち着かなくて、いくつかを流し見するような感じしかしなかったし、(dividual inc.)。ドローンで台湾の街を飛んでいる映像の無人の光景は硬い恐さがあったし、パク・チャンキョン北朝鮮の少年兵の映像は、どこか安っぽい感じも含めて、悲しさとか、恐さとか、これはフィクションかもしれないけど、少年兵は本当にいたし、いるし、と思うと、それは理不尽なことだとは思う。

 

 「表現の不自由展」の抽選ははずれ、リストバンドはすてて、だけど、かなりの人数の人が参加しているのをみた。その場所で女性に話しかけられた。地元の人で、この再開にもずいぶんと力を尽くした、というような話を聞くと、こういう人もはずれてしまうんだ、と思い、ただ、その人はリストバンドは記念に持って帰ります、といっていたが、ここまでの様々なことにも詳しくて、楽しい会話だった。

 

 それから、窓から、ジェームス・ブライドルの見えない偵察機を線で描き、それは上からしか見えない、という作品は、なんだか気持ちがよかった。そして、また時間が過ぎ、あとは、タニア・ブルゲラのメントールの強い香りがする部屋は、ぜんそくの妻は入るのをやめたし、その数字のスタンプは腕にしてもらったが、それは、ものすごくライトであったが、このハードなものが現実にあることを想像すると、やはり怖さは感じた。

 

 途中から、まだ作品があるのか、という気持ちになっていたのは、午前中から鑑賞していて、この展示を見るのに、随分と歩いたせいだと思う。特に妻は疲れ、足は少しひきずっていたので、予約が必要な伊藤ガビンは、館内のいかにも公営な喫茶店で妻に待っていてもらって、一人でみにいった。チームラボに対してのディス、みたいな感じもしたが、面白かったというか、これを大げさなものとして見せる、ということなのだろうけど、笑い抜きで正面から悪口いってもいいのかも、とも思った。

 

 夜の7時半くらいには館内を出た。加藤翼の、コントのような映像作品を地下2階でみて、小泉明郎の映像作品があって、それを忘れていて、もう見られないことがわかって、それは最後まで残念だったし、明日は台風のため、ただ早く移動をするから、豊田市の作品が見られないのは、それでも、もっと残念だった。

 

 

(2019年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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