2015年11月26日。
何年か前までは、この人の作品は地元の駅にあって、毎日ように見る事が出来た。うまくなりすぎない感じが、どこか諸星大二郎のような感じがあって、ただ、その感じは、どこかで見たような気がして、あまり見た事がないようなものであると、ある種の頑固さというか、とても強い意志によっての変わらなさみたいなものに支えられているのかもしれないと、今日、展覧会に行って改めて思った。
古いタイプの鉄筋コンクリートの建物でもある神奈川県民ホールは、最初の横浜トリエンナーレの時は、小沢剛のちょっと抜けのある作品の会場ともなったが、その時は、アメリカの同時多発テロがあった時で、その映像がさっそく使われてもいた。今回も入り口の受付の中年の女性の方々は、いつもボランティアの感じが強くするのは、長い机を置いてあって、いかにも臨時で作りました、というような気配が強いせいもあるのだろう。
地下へ降りて行く時に影が回っている。小さい装置だけど、その空間に大きい影響が出るし、そこですでに空気を変える効果があるのを改めて思う。ロッカーがある空間に月を背負った大きいかたつむりがいる。ちゃんと月の表と裏がある。裏はクレーターが多くて、すごくぼこぼこして、気持ち悪いといっていいような映像を見て、それが再現されていた。
入り口付近にある作者の言葉によれば、この4年半の作品らしく、それは、東日本大震災から作品が作れなくなり、あちこちに行ったり、いろいろな人に会ったり、ということをして、その中で出来て来た作品らしい、というのだけは何となく理解できた。
部屋には、ドローイング。陶器らしき固まり。動物の絵が描かれたコートを着た子どもの人形。静かな、そして、未完成だったり、まだ動いている感じのする作品が並ぶ。
大きな本に、出会った人達との会話があったり、音が聞こえたり、雪の山の上の小屋に船の作品を設置した時の記録映像。
皮を使った絵が並ぶ。きれいになめされていて、スムーズな表面にはなっているけど、明らかに動物の(牛らしい)皮を使って、そこに絵が描かれた作品が並ぶ。オオカミ、キツネ、タヌキ、トリ、そんな動物たちが描かれている作品も並び、それから、箱の中に柔らかい布のようなものがあって、その上に様々な形と色がある陶器が並んでいるから、それは荒川修作の作品を思い出させたりするが、それがかなりの数が並んでいて、暗い部屋で照明があてられているから、何かの死体置き場のようにも思え、強い静かさみたいな空気が漂っていると思って、大きい展示室に入ったら、とても大きい作品が天井からつられていた。「皮緞帳」というタイトルだったが、そこにいろいろな絵が描かれていて、自然と動物ばかりが描かれていて、そして、思ったより大きかった。
たて6メートル。よこ24メートル。という表示だった。少し圧倒され、そこにある色彩を見ている。それから、その展示室には、様々なものがあって、湖のジオラマかと思ったら、湖の底に顔がある。そんな構成の作品がいくつか並ぶ、そして、敷物のようになっていて、そこに絵があり、ストーリーがあり、大勢の人達の協力を得ている映像が流れていたり、雪の山の中にうもれるように進む電車の映像があったり、暗い展示場の中で、幅が広い感情が出てくるような場所だった。そこからさらに階段をあがり、また陶器の作品があり、渡り廊下のような少し不安定な場所に着物(白無垢、名づけられていた)があったりして、見終わった。
手作りで、スケール感が、これだけ出る、ということなのだろうけど、作って来た時間みたいなものまで感じさせてくれた。
動物や自然に近づこうとして、そして、同時に、そこと敵対するような存在として、自分を意識している、ということかもしれない。
すごかった。
(2015年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。