アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「木々との対話 再生をめぐる5つの風景」。2016.7.26~10.2。東京都美術館(上野)。

「木々との対話 再生をめぐる5つの風景」。2016.7.26~10.2。東京都美術館(上野)。

2016年9月10日。

 同時開催の展覧会があったりして、「開館90周年記念展」とあるのに、会場に入ると、奥のほうでちょっとひそやかに開催している、という気配だった。この前は、この美術館の講堂でシンポジウムがあって、けっこう充実した時間だったから、ありがたい場所でもあるし、今日は、若い友人と一緒でもあるので、さらに楽しいような気持ちにもなっているようだった。

 

 奥に歩くと、この美術館の古さが目立つような、公民館というか、市民ギャラリーのような空気感が強くなってくるような場所でもあって、このすみっこの部屋の並びは、もしかしたら初めて入ったのかもしれないが、最初の展示室には木彫りというにはスムーズな手触りを予感させるような「よくできてる」という印象の作品が並んでいた。土屋仁応。木彫りで、精密で、それも架空も、実在の動物も同様に作られていて、同様な存在の重さで、そのなかでも子犬という作品が、そこに柔らかく、体重を感じさせるようの横たわっていて、売れるのではないか、という感じがある。

 

作品は何体も並んでいて、その技術のすごさを素直に思うのもいいし、木という昔からの素材で、そして、木というのは樹木という植物があって、それを切り取って、というものでもあって、だけど、木を切り倒しても、そこからまた生えてくるから、動物を殺して食べる、ということとは微妙に違うニュアンスもあって、その完成度の勝負みたいなものは、鎌倉時代も含めての勝負になっているような気もして、こうやって定期的にこうした作品を作る人があらわれるようにも思った。

 

 だけど、この技術を獲得するには、ある程度以上の年月が必要で、身につけたら、アートの世界では評価も得られないということもありえるのに、みたいなことを見たあとに思ったが、見ている時は、その技にやっぱり感心をしていた。

 そのあとに田窪恭治の作品。木に金を塗ったりしていて、不思議な質感があって、それは金継ぎというような流れとも関係あるのかもしれないが、そうした作品が並び、わたしが知っているのは、ヨーロッパの教会にリンゴの絵を描いた人という印象しかなく、その人ですか?という質問をスタッフの方にしたら、スムーズに答えがかえってきて、そういえば、前室で、監視のスタッフの女性がほとんどステップを踏むような動きで、注意をしている姿を見ていたので、プロの人が集まっているのかもしれない、などと思った。外には、イチイの木、というタイトルの作品が横たわっているが、それはブロンズで出来ているようだった。外にいちょうに関係している作品もあるらしいが、それはあとにして、次に行く。

 

 舟越桂。あれだけすごいと思っていたのだけど、そして、相変わらずの完成度とたたずまいの静かさと、変わらないのだけど、勝手なもので、そのすごいと感じた感じが薄れていると思った。

 

 須田悦弘の作品があって、いつもと同じような雑草だったり、ゆりだったり、バラだったりして、雑草以外の置き所は、それほどのすごみも感じなかったが、作品の薄さがまた薄くなっていて、技の上達が目に見えるようで、その凄さがまた更新されるような感動が少しまたあったのを感じた。

 

 國安孝昌の作品。巨大な木材と、陶器をつかったインスタレーション。数十メートル単位の大きさで、部屋の横も縦も、高さもうまっているような凄さ。カタログで見たら、屋外に設置してある作品もあるみたいで、そのほうが魅力的に見えたのと、写真で見ると、川俣正と似ているなどと思ってしまったのだけど、だから木材と陶器を組み合わせているのか、とも思ったが、今回の設置も15日間で本人とスタッフだけだったということをスタッフに聞くと、すごいと思った。

 

 さらに、資料室にある美術全集のすきまの奥にある須田悦弘の、草の作品や、アートラウンジのガラスケースにある朝顔を見て、やっぱりおおと思って、そのあとに田窪のイチョウのまわりに敷き詰めてある焼いたパンのような色のレンガのようなものが、びっしりとあって、それが、さびさせて安定させたような材質、というところが、いろいろなことを考えさせてくれた。