アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

私たちは『買われた』展。2016.10.6~11。ぎゃらりー彩光(横浜、馬車道)。

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私たちは『買われた』展。2016.10.6~11。ぎゃらりー彩光(横浜、馬車道)。

2016年10月11日。

 たまたま、わたしたちは「買われた」企画展、といったタイトルのNHKの番組を見て、昔「売春」と言われてきたことが、今は違って来ているのだけは伝わってきたような気がして、この企画自体を実現したことがすごいし、それを番組にしたのも、作り方も丁寧だと思って、インターネットで調べたら、夏にやった展覧会をアンコールでやることを知り、それが明日まで、ということも分かった。
 

 馬車道は降りたことがあるけど、初めてのギャラリーで入り口は何の変哲もない昔ながらのギャラリーで、受付で1500円を払って、中はメモも禁止なんだ、と思って、パーテーションの向こうには、人が思ったよりも多くいた。10人はいたと思う。ギャラリーでの展覧会でトークショーなどのイベント以外でこんなに人がたくさんいる光景は初めてかもしれなかった。

 

 写真と、パネルに書いた文章というシンプルな構成。性を売った若い女性達が自らモデルとなり、自ら書いたり、聞き書きだったり、ということはスタッフから聞いたのだけど、その文章はうまい、というのではなく、言葉が強く、嘘のなさがすごいように思える。今の、若い女性のこうした(というまとめ方も失礼だけど)問題は、貧困とか、家庭がひどかったり、そして、他人事ではなく児童相談所などの「支援」する側の問題もあった。
 

 体を売るしか生きる方法がない、というところへ追い込まれているんだ、というのが改めて少し分かったように思う。支援する側の話を読んで、知って、こんなひどいことがと思い、偽善的であるのだけど、自分も違う分野だけど支援の仕事をしていることもあり、恥ずかしいと感じたり、申し訳ないと思ったりもしたが、実際に自分が現場にいたとして適切な対応が出来るのか、と思うと自信はないが、ここに来たあとは、適切な対応が出来る確率は少しだけど確実に上がっている気はする。

 

 こういう企画をすると、さっそくインターネットでたたかれていらしいが、どうして、すぐ叩くのだろう、と思う。それよりも例えば本にするとしても意味は大きいと思うが、こうして写真があって、また「いわれて嫌だった言葉」を書いた布があったり、パネルで文章があったりして、こうして展示されて、そして、他の人たちも読んだり、見たりしている中で、一緒にいることが、とても意味が大きいとは思えた。

 問題は、問題として形にならないと、人は気がついてもくれない。

 形として実現したのが、すごいことだと思う。

 

 

(2016年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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