2017年8月12日。
カイカイキキのホームページで、トークショーがあるのを見つけて、妻と相談して申し込む。おそらくは最後まで見られないと思いながらも、久しぶりのトークだし、聞きたい気持ちがあるので、出かけて、ギャラリーで展覧会を見て、午後2時半になったら、そのギャラリーで受け付けが始まった途端、そこにいた人たちがわらわらと集まった。自分も少しくらいあわてたくらいで、列の後ろに並んだ。2000円のお金と、急な告知だったのに、かなり人が来ているようだった。
地下のギャラリーから、階段をあがって、初めて、そのビルの中に入ったら、スマートな男性がエレベーターの前でドアを開けてくれた上に、三階のボタンまで押してくれた。いつもとは縁がない世界。オフィスに入ったら、異質感を出して、薄いジャンパーと帽子を身につけた村上隆が、ホワイトボードに書き込みを続けていた。修行僧のようにも見えた。
人はけっこう来ていて、いつもは見ないような、おしゃれで裕福そうな人がたくさんいて、本当は、自分がここに来てはいけないんだろうな、とひがみっぽいことも思ったが、どういう人が来ているんだろう、という気持ちにはなって、関係者でもないのに、学生でもないのに、来ているただの中年は、他にいないのではないか、というような気配だった。
時間になったら、ジャンパーを脱いで村上は話し始めた。
バブルの頃、日比野克彦の登場で、現代美術界は焼け野原になった。その焼け野原になったところで、私はデビューしたのですが、その流れと同様というか、おしゃれ、というのがある。このおしゃれというのが鬼門で、おしゃれというのは時代に追従してしまうので。何か作ろうとするのであれば、何かの足場に立たないといけない。たとえば、現代陶芸では、青木亮という人が、おしゃれだと思いますが、パトロンは大衆でマスにうけるとなると、おしゃれがいるのかな。西欧は特定のパトロンがいるので、マスではない。
ところで柳の民芸は、エリートの上から目線で、それに比べて古道具屋 坂田は、裸一貫だと思っていて、それを、おしゃれだけで見ているのは、違うと思う。何しろ、芸術は、おしゃれに触れると、腐ります。
坂田の、ぼろぼろのTシャツを見た時に、裸一貫だと思った。ヒップホップが好きなのは、裸一貫の感じがあるからで、それで、日比野克彦が出て来た頃は、バスキアみたいだと思っていたのだけど、それはマイノリティの勇者でもあったのだけど、だけど、今回、日比野さんの作品を並べたら、瑞々しくて素晴らしい。そして、どれもあの頃のアメリカへのあこがれが出ていて、すごく、うそなくリアルで、素晴らしい。時代を変えたのも、現代美術を焼け野原にしたのも、しかたがないかな、と思える。
このあたりで、午後4時20分。話は面白そうだけど、自分は帰らなくてはいけない。気がついたら、部屋いっぱいに人がいた。100人はいるかも。小走りで、広尾の駅に着いた。とても残念だったけど、しかたがない。村上隆の話は、いつもうそなく聞こえてすごいと思う。