2017年1月24日。
「美術手帖」は、一般から見たら一部しか読んでないような雑誌だと思うが、でも美術業界内の読者率は、おそらく異常に高いと思う。その雑誌で、「ニューカマーアーティスト100」という特集があって、それを基にした、というか、ここに載っているアーティストの方は割り引きます、というポイントをついた企画でもあって、だけど、渋家やパープルームという、集まって住んでいて、楽しそう、みたいな場所が出来てきていて、これはおそらくは貧しくなったから次々と出来てきているような流れもあるだろう。
だけど、そのことをあまり知らないままだったので、面白そうだし、見に行くことにしたが、最初は50人くらいの参加のはずだったから、ゆっくりと行けばいいや、と思っていたのだけど、気がついたら100人を超えていた。
黒瀬陽平は、以前のゲンロンカフェでは、あんなにグダグダだったのに、2年前にいわきへ行った時も、すごくよかったし、どうして、こういう意味での成長を見せたのか謎だが、どちらにしても、梅津という人は絵は知っていたけど、思ったよりも若いし、齋藤という人は、特徴のある顔でどこかで見た、と思っていたが、「ニッポンのジレンマ」だったと、あとで分かった。
黒瀬は、包摂アートという言葉を使い、それはケアでもあるらしく、それだとダメで、その中で社会実験を行わないとダメだと思い、その気配があるから、この二人を呼んだ、という言い方をしていた。
二人とは、梅津と齋藤だったが、梅津は、明治以来の近代の流れを人体実験のようにくり返していきたいという考えを語り、齋藤は、この渋家が作品で、このことで、何かが生まれるを繰り返した。
近代美術館の学芸員である蔵屋美香が座っていて、その姿勢が一歩引いていて、冷静だった。蔵屋は、セザンヌがよかった、といった話や、男性はグループと作るといった話をしていた。
ここにいるのは、関係者やアーティストが多いらしく、質問の時間になっても、質問者が質問者を批判したり、また1000万円かけて作ったのが美術館は収蔵してくれない。という質問というか、嘆きを語る質問者もいたが、それは誰を観客に想定しているかが間違っているのでは、というような答えがあったりもしたが、その収蔵の基準が「いい作品と収蔵される作品は違う」というような関係者の言葉もあったりしたらしいが、それは独裁者の論理みたいだった。
山内祥太と、みとななえ、という人。もう一度、美術手帖2016年12月号を借りようと思った。11時を過ぎても終わらないので、席をたった。残念だったが、普通に予定を2時間超えて、まだやっているというのは、すごい。そして、このくらい話さないと、何か少しでも新しいことは出てこない、というのも本当だと思う。
黒瀬がマーケットの論理の外で生きていける論理を両方持たないと、ただマーケットに巻き込まれてしまう、という言い方をしていたのが印象に残った。
『梅津庸一× 蔵屋美香 × 黒瀬陽平 × 齋藤恵汰。今、日本現代美術に何が起こっているのか ──「ニューカマーアーティスト」から見る美術の地勢図』
https://genron-cafe.jp/event/20170124/
梅津庸一「ラムからマトン」