2018年5月19日。
パープルームを2014年に始めてから、それも共同で暮らしながら、美術予備校を名乗りつつ、こうした場所があってこそ、そこで救われるという言い方は粗かったり、失礼だったりもするのだろうけど、そうとしか言いようのないような関わりが生まれそうな場所を作った頃から余計に気になっていて、だから、ワタリウムの展覧会にも行ったし、その時のトークショーにも参加した。
その言葉というか、言っていることは、もしかしたら美術関係者でないと理解できないことなのかも、と思ったり、見た目よりももっと気むずかしそうだったりもするのだけど、様々な人と関わっていて、なんとなく気になっていて、そうしているうちに、もう少し理解が深まったりするのかな、と思って、機会があれば、作品や、その活動を見てみたいと思っていて、だから、今回、展覧会があると知って、行きたいと思い、出来たらトークも聞きに行きたいとも思ったものの、その日は行けないままで、ここのところ出かけるだけなのに、それが続くと普通に体調が崩れたりするので、すごく慎重にはなっていて、だから、余計に行動が制限されてしまっているのだけど、それが介護をする生活ということになるのだろう。
初めて来た場所。以前も、倉庫の上階をギャラリーにした場所に行ったことがあったが、それと同様に大きなドアのボタンの押し方にいろいろな制限があって、説明が書いてあるエレベーターに乗る。
降りたら、ホワイトキューブ感が満ちていた。
同じ階に、ここにある全部のギャラリーがあるみたいだった。
URANO「共同体について」。
扉が閉まっていて、開けないと入れない。
パープルームな感じ、いろいろな色が混じり合って、梅津の作品があって、ビデオ作品は全裸で動いていて、他にも、渋家分派、という人たちの作品もあって、大学のサークル部屋感、というか、なつかしさというか、不思議な感じがいつもある。
説明があり、文章が並んでいて、読んでも、分かったような気にもなるし、やっぱり分からなかったりもする。それでも、何か見た、というか、何かを伝えられた感じ、というか、伝えたい気持ちとか、他に行く場所がないんだ、といったような思いが、ある。なんでだろう。
いつも、このパープルームという、共同体のありかたが、魅力的に見えて、ずっと気になるのだろうと思った。これからの世の中の生き残り方のひとつの方法にも見えるし。
そこから、別のギャラリーも回った。
YAMAMOTO GENDAI 小林耕平 あくび指南。
部屋には、いたずらをしたあとのような立体作品。日常で目に見えるものが、散乱し、形を作り、あちこちにある。映像が4カ所くらいで流れ続けている。作家とあと二人が話をしていて、禅問答のようなことを延々としているのだけど、なんだか面白い。人が考えて、そこに介入し、そのことで考えが変わったり、跳んだりする模様がドキュメンタリーになっているような。
Yuka Tsuruno Gallery 。大崎のぶゆき 「マルチプル ライティング」。
リヒターを思い出した。技法があって、それがかっこよく見えて、ただ、それ以上、何か迫ってこなかったのは、こちらの見る力不足とか、準備不足なのかもしれない。
Kodama Gallery 。大久保薫 「温室」。
厚塗りというか、筆跡が立体になっているような絵画。ショッキングなシーン、という表現がチラシにあったが、ちょっとピンとは来なかった。
(2018年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。