アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

トークショー。平倉圭×梅津庸一。『パープルーム大学 絵画をよむ』。2017.6.7。 ワタリウム美術館。

『パープルーム大学 絵画をよむ』。平倉圭×梅津庸一。2017.6.7.

http://www.watarium.co.jp/exhibition/1706umetsu/index.html

 

2017年6月7日。

 ゲンロンカフェでのトークを見てから、梅津庸一のことは、前よりも気になっていた。ただ、ナルシスティックだけでなく、何か根本的に違うことをやろうとしているというか、美術というジャンルで、本気で何かをしようとしているのは分かった気がした。

 

  ワタリウムで展覧会をやりながら、そこで毎日のように人を招いてトークという名前の「講義」みたいなことをやる、というのも含めて、それは本気だし、そういうことはとても意味があるし、それは、主催者の意図すらも超えて、何かしらの違うことが生じるような気もするし、楽しみでもあった。そのトークのうち、一回くらいは行きたいと思っていて、この平倉氏のことは、申し訳ないのだけど、まったく知らなくて、でも、絵画をよむ、というテーマなので、見に行った。

 

 午後6時前には、なんだかソワソワして、いつもはトークショーは、2階らしいのだけど、今日は4階からの始まりで、それは絵を見ながら2人で話している、といった時間が続いていて、その中で、この絵のそれぞれは、梅津にとって、わざと「気持ち悪く」しているといったことを改めて知ったものの、それがどこにつながるのだろか、気持ちよさみたいなものはどうなるのだろう、といったことを思った。

 

 たとえばセザンヌから、こちら側は、そこに人間の意図みたいなものを反映させる歴史でもあるのだろうから、それも正しいのだろうし、平倉氏が連発している、梅津の絵画などを「まだ見れてない」という言い方が、それだけ語られても、まだ見れてないのか、と思ったりもした。そして、平倉は、梅津の言い方が足りないと、そこにさらに言葉での説明をさりげなく求めて、負荷を与えつつも、本人の意図しない部分までを語らせる感じもよくて、「絵だけ切り出して、部分や方法を語るのでは、学芸員と一緒では」といった言葉を梅津にぶつけて、違うものを出させたりしていて、終わってみると、何が分かったのか分からないものの、絵という歴史の長いジャンルは、いろいろな可能性がまだあるのかもしれない、といったことを思った。

 

 もちろん、これが正解かどうかも分からないし、できたら、質問もしたかったけど、最初に質問した、自信がやたらとある女性の内容に、なんだかやられてしまっていて、だけど、充実した時間でもあった。気がついたら、午後6時から始まって、終わったのは午後8時45分くらいで、そこから、また絵を見たら、一度は来たはずの、見たはずの絵が、まったく記憶にないような絵にも見えて、こんなに豊富な要素で出来ていたんだ、といったことを思ったり、似ていると思えた絵が、実は、地元のギャラリーで見たアーサーファン氏のドローイングだったり(どこで縁が出来たのだろう)、ゲイサイで出会ったアーティストのもんだみなころ氏も、関わっていたことなども改めて知って、ずいぶんと幅の広い活動でもあるんだ、と思って、なんだか余計に面白さを感じた。

 

 こうして、美術館の展覧会として実現したのは、すごいと思う。まだ一週間以上あって、ずっと泊まり込むらしくて、それも含めて、楽しみでもあったりする。

 

 

 

 

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