アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

映画「野のなななのか」。大林宣彦監督。2014.6.9。有楽町スバル座。

映画『野のなななのか』。

https://eiga.com/movie/79847/

 

2014年6月9日。

 そんなきれいごとだけじゃ、何も現実化しない。大林監督の発言をあちこちで聞くたびに、そんな事を思っていたが、「この空の花」を2年前に見た時に、本当に申し訳ない気持ちになった。ものすごい映画だった。というより、映画の可能性を完全に押し広げた映画に思ったし、何が何だか分からなかったし、体験としか思えないものだったし、外から見ている、という気持ちにさせない映画だった。自分が分かっていないだけだった。

 

 それから、とてもげんきんなものだけど、完全に大林監督への見方が変わった。見えてなかっただけなのだろうけど、「この空の花」も自主制作映画として作られているのも知らなかったし、だけど、だからこそ、これだけのものが作れたのかもしれないが、自主制作になるというのは、納得がいかない部分もあるにしても、とにかく映画を作っているというのは、すごいと思うし、映画を作って観客に見せる、ということが出来れば形にはこだわらないということかもしれないし、それでも可能になっているというのは、改めてすごいと思った。

 

 古いロビー。動きがゆっくりで丁寧なスタッフ。それは伝統のあるホテル、というような気配。午後2時半の回に行ったのは、今週で終わりで、混むのではないか、と思ったせいで、自分ももう年輩と言われる年齢になったかもしれないのに、明らかに、その観客の中では「若手」といっていいような客層。60代後半の人が多いのかもしれない。

 

野のなななのか」が始まる。

 

 前作の「この空の花」のように、嵐のような字幕はない。だけど、登場人物がすごくしゃべる。アップになりながら、話が止まらない。92歳の設定の老人が亡くなるが、その人は男性だから、長寿なのだろうけど、どうしても家にいる義母の事を思い出し、そういえば、葬儀の手はずを、まだ生きる気配が強いものの、いざという時のために、私だけでも把握しておくべきではないだろうか、などとも思ったりもする。

 

 死んでから、葬儀があって、そこにも死者であるはずの老人はいて、ずっとしゃべったりもしている。この生きていることと、死んでいることとの区別のなさは、なんとなく分かるようで、まだ自分では分からないのは、本当の意味で老人ではないせいだとも思う。

 

 ただ、一人の人間が死んで、そして生きて来たことを振り返って、とんでもなく過酷といっていい出来事があって、死者が生きているかのように振る舞っていたようだった。常盤貴子が、その死んでいるか生きているか分からないけど、というきわどいキレイさみたいなものがあって、改めてすごいなあ、と思ったり、安達祐実が16歳を演じてみたり、安っぽいとしか思えない合成があったり、登場人物がこちらをしっかりと見て、しゃべったり、時間と空間が混じっていたるのだけど、それがスムーズな気がした。

 

 ただ、3時間近いからトイレが心配だったけど、それは大丈夫だったが、途中でわざととしか思えないゆるい時間の流れになって、少し退屈したりもしたが、生きることとか、死ぬこととか、戦争は本当にあったし、やっぱり起こさない努力をしなくちゃいけない。魂の言葉が、映像と音を通して、というより、そこに乗っかって、こちらまで届いた。中原中也の詩が何度も朗読されていたが、それはやっぱり、魂の言葉なんだ、と感じられたりもした。

 

 途中で、80歳くらいのご老人の女性が映画館に入って来て、私のすぐそばに立っていた。ちょうど画面は初七日だったりして、びっくりもした。タイミングがよすぎた。帰ってから、改めて見た義母は、やっぱり生きる気配が強かった。だけど、死に近いのも事実だった。自分だって、いつか死ぬ。だけど、まだ時間がたくさんあると思ったほうが、ちゃんと生きれるかも、などとも思ったが、死について考えたというよりも、たくさん感じられた映画でもあった。

 すごかった。

 次も見たい。

 ちゃんと劇場で見たい。

 そんな事を思った。

 

 

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