アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

書籍 『TOKYO POPから始まる』 小松崎 拓男

 2022年に出版された書籍の表紙の写真を見て、その作品をつくったアーティストも、どこで見たのかも、瞬時に思い出した。

 

(『TOKYO POPから始まる』 小松崎 拓男) 

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 表紙の作品は、奈良美智が作者だった。この作品が設置されているのは、平塚美術館。それも1996年のはずだ。

 

 それだけはっきりと覚えているのは、この書籍の表題となっている「TOKYO POP」という展覧会は、自分にとっても、それまでほとんど興味がなかったアートというものに対して、突然、距離を縮めてもらい、それから自分にとっては必要なものになり、特に気持ちが辛い時に、支えてもらった恩まで感じているせいだ。

 

 それは、このブログ「アート観客」の最初に書いていて、このブログのきっかけでもある。

 

 私にとっては、平塚美術館で1996年に開催された「TOKYO POP」は、意味が大きかったので、その2年後くらいに、ライターとしてある編集部に売り込みをした時に、アートの話題として出したときに、冷めた言い方で、「あれは古い作品も出していたんですよね」と言われたことがあり、その時も仕事につながることはなかったが、なんとなく、自分だけが勝手に思い入れているだけなのかと思っていた。

 

 それでも、その後、「美術手帖」という雑誌も読むようになって、その中で、1996年は、日本の美術界にとって、割と分岐点でもあったのではないか、といった指摘も読んだ記憶があって、それで、気持ちを立て直したりしていた。

 

 そんなことも忘れ、それは、2020年にコロナ禍になって、アートに触れる機会もものすごく減ったけれど、それでも感染が減った時などは気をつけながらも、見にいくことはやっぱり続けていた。

 

 そんな頃、「TOKYO POPから始まる」というタイトルの本があるのを知った。

 

(『TOKYO POPから始まる』 小松崎 拓男) 

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恩人

 

 そして、その本を読んで、著者が「TOKYO POP」の開催を企画した当事者そのものであったことを知った。

 

『1996年4月27日から5月26日までの1ヶ月間、『TOKYO POP』展は、神奈川県平塚市にある平塚市美術館で開催された。東京からはJR湘南新宿ラインで1時間ほどの神奈川県にある公立の美術館での「TOKYO」という名を冠した、当時も、またいまも「なぜ?神奈川でTOKYO?」と言われてしまう展覧会である。そして内容も、一部では名前を知られ始めてはいたものの、ほとんど一般的には無名だった若いアーティストたちを中心に集めた、公立の美術館で行う現代美術の展覧会としては、異例の、それまでには見たこともない展覧会であった。

 この展覧会に参加した村上隆も、奈良美智も、会田誠も、これをきっかけに多くの人に名前や作品を知られ、大きく飛躍していったにもかかわらず、この美術展の存在について公に言及されることは少ない。あれから4半世紀、25年という時間が経った。20世紀から21世紀へ、そして平成から令和へと時間は流れ、90年代から現代に至るまでの日本の現代美術の流れを歴史化すべき時期にきていると思われるいま、日本的なポップ・アートが広く認知されていくひとつの契機となった『TOKYO POP』展を思い起こし記述しておくことは、この展覧会の企画者としての責務のように思える』。(書籍より引用)

 

 もちろん、当事者だから、評価が高くなってしまっている可能性もあるけれど、それでも意味がある展覧会であることを知ったのは、やっぱり嬉しかった。

 

『その頃、地方の公立美術館で現代美術の展覧会をやることは、容易なことではなかった。「現代美術なんてわからない」「人が来ない」「学芸員の個人的な趣味で展覧会をやるな」等々、謂れない非難に晒されるのがオチであった。

 最終的に実現したかった展覧会は、村上隆の個展であった』。(書籍より引用)

 

『しかし思わぬ形でこの現代美術展が実現できることになる。予定されていた展覧会が飛んでしまったのだ。そしてその代わりとして『TOKYO POP』展を急遽、開催することになった。館には短期間で準備できる展覧会のアイデアを持ち合わせている学芸員がほかにいなかったからである。その間隙に乗じて、この展覧会は実現できたのだ。準備期間がほとんどない中、アーティスト選びが始まり、展覧会に向けてスタートが切られた』。(書籍より引用)

 

『最初から展覧会の内容の方向性は決まっていた。国際展で注目され始めていた村上隆森万里子など日本の漫画やアニメーションなどのサブカルチャーやテレビのアイドルたちが見せるポップな姿に影響を受けた若いアーティストの新鮮で勢いのある表現を集めることを目指したのだ』。(書籍より引用)

 

 さらには、あの展覧会が、偶然も含めて味方にした上で、企画者の強い意志があって、そして自分が、その企画を、かなり狙い通りの受け止め方をしていたのも知った。

 

 そういう偶然が働かなかったら、この展覧会が開かれることもなく、そうなったら、もしかしたら、今のようにアートに興味を持って、見に行き続けることもなかったのかもしれない。

 

 アートのおかげで、気持ちが支えられていた部分もあったのだから、あれから26年がたって、「恩人」がいたことを知った。

 

 小松崎 拓男さん、ありがとうございました。

 

実現しなかったこと

 

中原浩大のレゴ作品を会場に置こうと心を決めて、交渉に臨んだ。(中略)ただ鮮明に残っているのは、中原浩大が電話口の向こうで言った、「いまさらポップ?」という言葉だった。       
 この一言で出品はものの見事に断られてしまった。確かに「いまさら」なのではある。(中略)だが、私は今でも中原浩大のレゴ作品は、日本的ポップの起源のひとつであると考えている。中原浩大は嫌がるかもしれないが……。 (書籍より引用)

 

 書籍の中で、小松崎氏は、中原浩大の作品を「TOKYO POP」に展示したかった、と書いている。それは、「実現しなかったけれど、やりたかったこと」と表現しているが、その時の鑑賞者だった人間として、この文章を読んだときに、私も、中原浩大の作品を、あの会場で見たかった、と思った。