『アート・パワー』 ボリス・グロイス
訳者あとがきによれば、この著者が重要なのは、「アートとは何か?」を正面から問い続けているから、ということらしい。そういえば、この本は、すごく社会の中のアートといったことも意識していると思えた。ただ、難しくて読んでいると、不意に眠気に襲われ、まったく読み進めないときも少なくなく、半分も理解できていないと思う。
それでも、部分的に過ぎないけれど、印象的な言葉も少なくなかった。
今日の美術館は、単に過去のものを収集するためのみならず、古いものと新しいものとを比較して現代を説明するためにも設けられているのである。
本当に基本的なことを改めて述べているけれど、こうしたことも大事なのでは、と思わせる。
美術館に展示されたときに古くて死んだ過去の芸術のように見えてはならないということを意味している。
その一方で、最近、圧倒的に増えてきたヴィデオアートについても、専門家からはあまり指摘されない、ごく当たり前のことも述べている。
ほとんどの観客にとっては、普通に展覧会を来訪しても、展示されているすべてのヴィデオ作品を見ることが物理的に不可能だからである。すべての作品の上映時間を合計すると、美術館での滞在時間を上回ってしまうのだ。
いまや観者は、芸術家がそれらの作品を作り出すために費やしたよりも多くの時間を、その作品を見るために費やさなければならない。
そして、現代美術についても、基本的なことから指摘している。
デュシャン以後、芸術の対象となる物を作り出すだけでは、その製作者をアーティストと見なすにはもはや不十分なのである。そのためには、アーティストは自分で作り上げた物をさらに選んで、それが芸術作品であると宣言しなければならない。
したがってアーティストは、自分の作品によってではなく、重要な展覧会に参加することによって評価される。
実際には、テクストが理解し難く不明瞭になればなるほどよいのだ。というのも、透けて見えすぎるようなテクストは、作品が裸であるような印象を与えるからである。
そして、「展覧会」についても、大事な指摘をしている。
例えば、アヴァンギャルドな芸術家にとっての芸術活動について。
彼らにとっての最終的な芸術的活動とは、古い視座で世界を眺める古い公衆のために新しいイメージを生み出すことではなく、新たな視座をもった新たな公衆を創り出すことだったのである。
そして、美術に関する現状については、こうした分析をしている。
展覧会の数は増えつづけている。(中略)それらは芸術作品を買う人のためではなく、大衆のために開催されているのだ。
アートだけではなく、哲学にも詳しい人であれば、私などよりも、もっと深く理解できると思う。
(同じ著者による、ケアに関する本です↓)
『ケアの哲学』 ボリス・グロイス