アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

書籍 『新写真論 スマホと顔』 大山顕

『新写真論  スマホと顔』 大山顕

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 写真論」という題名がついているが、ここでは、どうすれば「いい写真が撮れるか?」とか「どのような写真が優れた写真なのか」といった話は、ほとんどされていないと思う。ただ、厳密にいえば、それに近いことが書かれていたりする部分もあるのだけど、この著者は、「写真に一番近いところに居続ける存在」という意味での「写真家」で、その見せてくれる世界は、たぶん未知のものではない。見ているはずなのに、見えなかった視点を、示してくれているだけなのかもしれない。

 

カメラの変化の歴史

 空気のように、という言葉があって、それは、長年生活も人生もともにしてきたような夫婦が、お互いの存在を表現する時に使われて、それほどいい意味合いだけで、使われていないと思うのだけど、空気はないと生きていけない。

 たぶん、著者にとって、「写真」は空気のような、ごく当然で、しかもないと生きていけない存在だと思うが、そうした重い表現では、とらえきれないとも、すぐに考えさせられる。たぶん、もっと自然なものなのだろう。

 著者は、1972年生まれ、この世代は、生まれた頃からカラー写真で撮影されているのが一般的になった、という。それ以前は、小さい頃は白黒写真だった。そして、著者の育っていく時間の中で「写真」は、さらに変わっていった。

 

 フィルムと一体化していて、使い捨てのように使えるカメラ「写ルンです」が出たのが1986年。デジタルカメラが、一般的になったといわれているのが1990年代後半からだった。携帯電話にカメラがついたのが2000年の頃で、スマートフォンが登場したのが2007年のことだった。この流れの中で、著者は、工場を撮り始めて、そののちに団地を撮り続けている頃のはずだった。

 この時間の流れは、誰にとっても、写真が空気のようになっていく時代でもあったと思う。

 ただ、それは写真の変化、というよりは、主に撮影機器、カメラの変化でもあった。

 

デジタルカメラの衝撃

 

『デジグラフィー  デジタルは写真を殺すのか』 飯沢耕太郎

 

 この本が出版されたのは、2004年。デジタルカメラが一般化され、新聞社や出版社から「暗室」がなくなってきた頃のはずで、このサブタイトルに「デジタルは写真を殺すのか」とあるように、デジタルカメラへの変化は必ずしもポジティブなものとして捉えられていない。

 今振り返ると、それは「カメラ」という撮影機器の変化であり、フィルムという制約がなくなった分、比喩的にいえば、無限に撮影ができることによって、決定的瞬間という価値や、操作の難しさがあるカメラを扱えるという意味でのプロの写真家、という存在がなくなるのではないか。そんな恐怖心が、この本の底には流れているように思う。

 著者の飯沢耕太郎は、1954年生まれ。写真評論家であるものの、生まれた時は、白黒写真しかないはずで、そこからカラー写真、写ルンですデジタルカメラ、という歴史を順を踏んで見てきたはずだ。この2000年当時での変化を肌で感じたのは、著者が50代を迎える頃だから、その変化が、よりショッキングだったのではないだろうか。

 それは、写真(決定的瞬間も含めて)が、誰でも撮れるものになっていくことへの違和感だったのかもしれない。

 

スマートフォンSNSによる写真の変質

 

「新写真論」の著者・大山顕は、写真家の弟子になるといった古典的な専門家への道筋ではなく、個人的に、工場や団地やジャンクションや、自分が撮りたいものがあって、それを撮るためにカメラが必要で、その写真の蓄積によって写真家になった人物に思える。

 だから、より重要なのは、被写体であって、カメラという機械ではなかったのではないだろうか。そして、それは、今、カフェに入り、「かわいい」デザートを撮影してから食べる人たちの発想と似ているように思え、だから、大山は、未来の写真のことも語れるのかもしれない。

 

 ぼくはスマートフォンによって、ようやくカメラは完成形に近づいたと思っている。(中略)何も考えずに撮りたいものに向けてシャッターを押せば、望み通りの写真が撮れる。そうなるべきだ。

 そうなったらいったい写真家がやるべきこととは何なのか。それは「その時間、その場所にいる」ということだ。

 

 どうすればいい写真を撮れるのか、といった従来の「写真論」とは、すでに質の違う話になっていて、著者にとっての「写真論」の「新」の部分は、スマートフォンSNSが一体化した時代以降のことのようだ。

 

スマートフォンで撮られSNSがシェアされる画像に対しては、従来の「写真」とは異なる名前を与えるべきかもしれない。 

 

 こういった見定めが、独特でありながら自然で説得力があるように思えるのは、ここで断片だけ述べると、(たとえば、「写真に触れるようになったのは、衝撃的だ」といった話など)うまく伝えられないけれど、この著書の、豊富なエピソードと、魅力的な視点に触れたせいだと思う。

 だから、こうした終盤の、結論のようなところも、あっさりと飲み込めるような気がしてくる。

 

 

撮影もその解析も完全にぼくらの目に触れることなく行われるようになって、写真の自立は完成する。そしてそれはすでに存在している。「写真とは何か」という問いに答えるのが写真論の使命だとしたら、以上がそれに対するぼくの答えだ。

 こんにちの写真とは、写真それ自体のシステムのことである。写真は人間のものではなくなったのだ。こんにちの写真とは、人間のためのものではなくなった、それ自体のシステムのことである、と。

 

 これだけを読むと、大げさにも響くのだけど、この本を読むと、納得感もあるし、写真というものが、すでに新しい「生命体」のようなものになっているのではないか、といった印象も深まってくる。