アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

書籍 『水中の哲学者たち』 永井玲衣

『水中の哲学者たち』 永井玲衣

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 哲学カフェ。

 最初は、怖くもあったのだけど、実際は、自由で誠実な場所であって、だから、考えることの必要性だけでなく、その楽しさも少しわかったような気がする。それは、最初に行った場所に恵まれていた、ということでもあると思う。

 

『わたしも哲学 〜 高校倫理のおさらい』

https://www.kyoudou.city.ota.tokyo.jp/G0000343/looking/73.html

 

 だから、それ以来、哲学に対して、以前よりも距離は近くなったものの、それをきっかけに、名前だけは知っている「哲学者」と言われるような人の本を読んだのだけど、わからなくて、何がわからないかわからない。という感覚に久々に覆われて、本当は、哲学には近づくことができないのでは、という気持ちと、もっと勉強しないと、という思いと、それはしんどくて無理です、という言い訳のようなものが、混じっている状況が続いている。

 それでも、哲学対話、という言葉を見ると、読んでみる。

 そして、久しぶりに、哲学対話、が更新されていたような思いになった。

 

『水中の哲学者たち』 永井玲衣

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 例えば、現代美術の世界。

「難しいと思われがちな現代美術ですが…」という枕詞のような説明は、すでに30年前から続いている。つまりは、そこから進んでいないのだと思うけれど、それだけ必要とされていないのだと思う。そして、必要とした人間は勝手に見に行って、考え、また見てを繰り返していって、さらに必要になっていくという作業をしているはずだ。

 哲学の世界も、似たような印象がある。

 今の自分自身でも、とても分からないと最初から敬遠しがちな部分はあって、かといって、例えば、わかりやすく物語のように書かれて、そこに「大哲学者」が現れてわかりやすく語る、といったものを読むと、やっぱり最初に、その「大哲学者」の原著を読まないと、という微妙な焦りが残ったりもする。

 もちろん、哲学をもっときちんと学ぶ場所や方法はあると思うし、自分がそれを知らないのは怠慢や無知で恥ずかしい部分があるにしても、これまでの印象だと、スタジアムで高度なプレーをしているようなプロフェッショナルな世界と、こちらに向かってヒザを折って優しく手を差し伸べてくるような入門教室の両極端に分かれていて、その中間がないように感じていた。

 誠実で真剣で、自分でも考えてきたけれど、それでいて参加することで、一人では届かない場所へ行けるようなフェアでカジュアルな世界がなかったことに、この本を読んで、改めて気がついたのは、筆者が文中で書いていた、ある哲学の研究者に感じたことを、この本を読んでいて、思い続けていたからだった。

 

 

 それから彼の姿をいろいろな場所で見た。彼は、哲学の博士号を持っているらしいが、どんな場所でもどんな相手でも、ただ話を聞いて、いくつか質問し、時に反論し、自分の考えを伝え、そしてすぐに「なるほど」と言った。ややクセのあるような参加者の、何度も回り道をし、ひどく個人的にもかかわらず具体性が伝わらない、反応にしにくい主張でも、彼は「いまの話、すごく面白くて」と拾い上げて、魔法のようにその意見の奥底に隠れていた魅力を探り当ててしまった。

 緊張で顔を醜く上気させ冷え切った手足を固くしていたわたしには、それが驚くべきものに見えた。そこには教育的配慮や、知識人が慇懃に素人の話を聞いてやろうとする厭らしい笑みとまなざしはなかった。彼は、あらゆるひとのあらゆる意見が真理に貢献すると本気で思っているようだった。私が話そうが、権威ある研究者が話そうが、中学生が話そうが、彼はその身分に興味すらなかった。彼のまなざしは、私をつらぬいて、どこか遠い彼方へ向けられているような気がした。 

 

 上でも下でもないフラットな対話を重ねることで、そして、そこの場所でしか感じられない何かで、人が少し変わるかもしれないこと、もしかしたら、少しでも自由になれること、そんな気配が伝わってきた。

 

日常的な思考

 

 どこで読んだのか覚えていないが、哲学を専門とする人が、こんな話をしていたのを、ぼんやりと記憶している。

 現代哲学は、フランス人が中心になっていると言われていて、その著作は、とても難解だと思われている。確かに、誰でもわかる、ということではないかもしれないけれど、ただ、その使われている言葉自体は、翻訳されている印象よりも、もっと日常的だから、その哲学に対する印象も、例えばフランス語を理解できる人だったら、全く違ってくるかもしれない。

 これは、とても不正確な記憶に過ぎないし、私自身も哲学に詳しいわけでもなかったけれど、哲学があまりにも日常と切り離されたものとして扱われているのは、少し変だと思っていた。本当は、哲学は、もっと日常的で、でも、現実とは違った思考ではないだろうか。だけど、そのことは、そこまで考えていて、しばらく忘れていたのは、そこから先に自分だけでは行けなかったせいだと思う。

 そんなことも、この本を読んで思い出したのは、この筆者の行っている哲学対話や、筆者の普段の思考が、まだほとんど見たことがない「日常的な哲学」だと思えたからだった。

 

ある夜、知人4人で食事をしていたとき、その中に福岡出身のひとがいた。彼にあれこれと質問をし、あそこはいいところだよね、あそこは何がおいしいの、などと九州の話で盛り上がる。すると、ずっとにこにこと黙って話を聞いていた1人が、このあとの予定を訪ねるような気軽さで自然に問いかけた。

 

「九州って四国?」

 

 思わず絶句してしまう。「違う」と言うので精一杯だ。このひとはそれを知らずにどうやって生きてきたんだろう。(中略)

 彼は普段から、ジンジャーエールを自分で買ってきて、飲んだあと驚いた顔で「ジンジャーエールの味がする」と言うひとなのだ。

 世間ではそういったひとたちのことを「天然」などと名付けて、何とか型に当てはめようとする。しかし彼らはその言葉からもするりと抜け出して、楽しそうに走り回っている。わたしがぐにょぐにょした世界で身動きを取れずにおろおろしている間に、気にせず前にずんずん進んで、こちらにおーいと手を振っている。凝り固まったわたしを粉々に打ち砕いておいて、けらけらと笑っている。

 そしてそれがわたしには、なぜだかとてもうれしいのだ。

 哲学対話をしているときも、同じような喜びがある。わたしの硬直してしまった信念を誰かがあっけなく壊してしまう。こわくて、危なくて、うれしくて、気持ちがいい。どきどきしながらも、素肌に風が当たるかのような感触がある。わたしは世界に身ひとつで佇まざるを得ない。

 

 この姿勢は、とてもフェアだと思う。

 

学校と哲学

 

 例えば、自分に子どもがいないと、教育現場からは遠くなる。だから、たまに、その現場を知る人の話を聞くと、場所によっては、昔よりも、もっと優しい圧力が増しているような話を聞いて、ちょっと重い気持ちにもなる。だから、昔もそうだし、今も、学校と哲学は、相性が良さそうで、あまり良くないようだ。

 

「生徒がとんでもないことを言ってしまったらどうするんですか?」

 

 子どもと哲学対話をやろうとすると、ほとんど必ず聞かれることだ。

 

 めちゃくちゃな論理やまとまっていない言葉で自分の考えを語り出すこともある。そしてそれをいやがる大人も多いし、生徒の哲学対話の様子を外から眺めて「生徒はとんでもないことを言っている」と苦笑する教員も多い。期待が裏切られた、というよりも、やっぱりね、という表情だ。「生徒に自由を考えさせるよりも、まずはしっかりした哲学の知識を教えるほうがいいのでは」と言うひともいる。

 哲学対話の授業に同行していた哲学教授であり哲学対話の実践家が、いつもと同じ質問を受け取ったとき、うんざりした顔でこう言ったことがあった。

 

「あのですね、哲学者のほうがよっぽどとんでもないこと言ってます」

 たしかに、子どもたちは意外と「とんでもないこと」は言わない。どこかで聞いたことのある優等生的な答え、親から受け継いだであろう思想、社会に流通している常識を口にする。問いに対して「答え」ではなく「正解」を言おうとするからだ。

 それに対し、哲学者は変なことばかり言っている。新プラトン主義の流出説とか。ニーチェ永劫回帰とか。ハイデガーの四方界とか。倫理学者だって、トロッコ問題やらサバイバルロッタリーやら、相当ぶっ飛んだ思考実験を試している。大学の授業で巡り会う哲学史に登場する哲学者たちは、臆することなく常識外れな考えを連発していて、その軽快さに引き込まれた。彼らは正解を目指しているというよりは、彼らの「答え」を求めているような気にさせられる。

「とんでもないこと」はなぜ嫌われるのだろう。なぜ「哲学」ではないと思われるのだろう。なぜ、子どもたちがこの世の正解を探すことを止め、自分の矛盾を抱えた思いをおずおずと表現したり、冗長な言い回しやめちゃくちゃな文法であっても何とか考えを口にしたり、負荷をかけながらも言葉を探す姿を見て、「なんか、とんでもないことばかり言っちゃってましたね」と簡単にまとめてしまうのだろう。子どもたちは世界を切実にまなざすからこそ、自由な発想を自らにゆるしたというのに。

 こういう人が哲学対話に訪れる学校に通っている子どもは、やっぱり、うらやましい。
 

突き放さない思考

 読んでいて、不思議な強さを、あちこちで感じるのだけど、それが、どんなことでも突き放さずに、そこに入り込むようなことを繰り返してきたことで、思考の持久力を養ってきたのかもしれない。

 

「おクーポンはございますか?」

 

 そんな過剰敬語に出会った時、筆者は、こうした思考を深めていく。

 

 だが過剰敬語とは、言葉の使用法の無知というよりは、不自然さを犠牲にして、相手に誠意を見せようとする力業ではないだろうか。こんなにも言葉を痛めつけてまで、わたしはあなたに篤実であるということを伝える行為だ。そして、その行為の是非は別にして、わたしは負荷をかけられてしまった言葉の生命力が好きである。この言葉はむしろ、生きている。打撃をとことん加えれば加えるほど、その言葉はぴちぴちと奇怪に生命力を誇示してくるようだ。

 

 哲学対話。哲学カフェ。考えること。悩むこと。

 そうしたことに興味があったり、困っている人であれば、私もそうだったのだけど、哲学や考え続けることの可能性みたいなものを、この書籍を読んで感じられるような気がする。

 深みにはまっていく、というよりは、考えが広がって、少し軽くなるような本でした。その不思議な感触は、全編を通して読んでもらえたら、より強く感じられると思います。