『あなたのアートを誰に見せますか?』
『社会の様々な問題に向き合うアーティストの作品を通して、孤独、身体とセクシャリティ、人間と自然の関係、他者との協働や連帯など、さまざまな今日的問題について考えます。さらに「オーディエンス」の存在に注目し、アーティストとそれを見る人との相互関係と鑑賞体験の新たな可能性を探ります』(ハンドアウトより)。
問題がない時代はないと思うけれど、それに対してアートの作品として形にする方法は、時として、意外だったり、驚いたり、視点を変えてくれたり、感覚的にわかったような気になれたりするのは、おそらくは、現代が最も豊富な作品が見られる気がするので、その点については、ちょっと恵まれているような、ありがたい気持ちになったりもする。
陳列館という場所は、初めてだった。
リー・ムユン
入り口を入ってすぐのところにカーテンで仕切られたスペースがあり、そこには映像作品が上映されていた。
「モノローグ」という言葉が出て、私が見た最初には「ミューズ」と呼ばれた女性が、その追悼のニュースが流れ、だけど、本人の映像が「ミューズ」などと言われたことを後悔している、といったことを話していた。
次は、駅のホームのカメラに向かって、つぶやくように話をする男性。
それから、何人も、同じようにカメラに向かって、「モノローグ」をする映像が流れる。それぞれの役を演じているのだと思うのだけど、それでも、ドキュメンタルな感じは十分にした。
不思議な不穏さがあった。
『リー・ムユンは日本に住む中国人として、違和感や疎外感に遭遇する自身の体験を元に、人間誰もが持つ孤独や卑屈さをユーモアを交えて映像やラジオドラマの形式で表現してきました』(ハンドアウトより)。
そのプロフィールはこうだった。
『2000年中国上海生まれ。東京藝術大学美術研究科修士課程在籍。映像やラジオドラマなどのタイムペースド・メディアを用いて独自のナラティブを表現する。自らの経験に基づいて、人の内面にある卑屈さや疎外感、孤独を描き、それらを他者と共有できるような作品作りを試みる』(ハンドアウトより)
あまり年齢のことを言うのは失礼だけど、すでに、この世代は映像が日常なので、あとはどう使うかだけになっている自然さを感じた。
岡田夏旺
その部屋を出て、すぐ右側に白い防護服のようなものが並んでいた。
それは、清掃の仕事のための白い服で、作家自身が、ホテルの清掃バイトをしていて、そこで知り合った人にインタビューをして、それを映像として流している。同時に、汚れているもの(これが何なのかは、分からないままだったけれど)を、その「同僚」と「清掃作品」を制作しながらも話を続けていて、その距離感は自然に感じた。
『ホテルの清掃のアルバイト先で高齢のスタッフや外国人のスタッフと出会い、それぞれの仕事や人生への思いに接してきました。同僚と協働しながら作り上げていく「清掃作品」を映像インスタレーションとして提示してします』(ハンドアウトより)
こうした作品に接するたびに、ミレーの作品のように「農民」を描いて、本人は有名になったけれど、その描かれた「農民」は無名のまま問題、といったことが頭をよぎったりもするのだけど、でも、誰に見せたいですか?という質問に「清掃の仕事をしていないすべての人」といった言葉をまっすぐに伝えている、この作家を思うと、いろいろなことを考えたりする前に、自分が、これは伝えるべきことだ、そして私がやりたい、という衝動に従うことも大事ではないかとも思った。
もし、こうした作品がなければ、私のような(清掃業界を知らない)鑑賞者は、こうした場所で働く人の言葉や思いを知ることも全く知ることはなかったから、伝えることの意味はあるのだと思う。
これはあくまで推測だから、この2001年生まれで、東京藝術大学の修士課程で学んでいる岡田夏旺が、もっと考えた上で、作品を制作しているのかもしれないが、どちらにしても、現在の本人が、ウソなくベストを尽くしているように感じられた。
青山悟
鑑賞者として、名前と作品を知っている作家だった。
こんなものまで刺繍で表現できるんだ、といった、どこか工芸的な驚きも含めて与えてくれる印象があった。
だから、タバコの吸い殻を、刺繍として、作品化しているのは、少し意外だった。
「N氏の吸い殻」。
それは、このコロナ禍の間に、倒産した知人のN氏の、もう稼働していない工場のような場所に落ちていた吸い殻を刺繍でつくったものだった。その由来を知るだけで、鑑賞者の思いはさまざまな幅を持つことになる。
同時に、この作品のキャプションに、こうしたものを作品として制作し、展示していいのだろうか、といった葛藤も書いていて、それは、ある著書の言葉を読んで、伝える意味があるのでは、と思ったエピソードまでも載っていた。それは誠実とも偽善的ともとれそうだけど、でも、やはり作品がなければ、私のような鑑賞者も知らないままだった。こうした葛藤があるのが、清掃をテーマとした岡田との違いで、それが1973年生まれというベテランだから、考えることが増えるということかもしれない。
そんなことまで考えさせてくれた。
さらに、その今は動いていない工場のような場所が映像で映されていた。こういう作品も、その由来を知らなければ、見え方が違うはずだった。
(青山悟氏が、今回の作品の際に参照した書籍のようです↓)
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メラニー・ボナーヨ
1階の一番奥。仕切りで区切られたスペースから、音声は流れてきていた。
そこの部屋の映像は、人々の体があふれていた。
『2022年のヴェネツィア・ビエンナーレのオランダ感を代表したメラニー・ボナーヨの《When the body says Yes》では、ワークショップを通して人々が互いの身体に触れ合い、身体に関する悩みや違和感、文化と身体の関係などについて語っています』(ハンドアウトより)。
展覧会では、アートということで、おそらくは許容されているのだけど、普段なら制限されそうな映像もあって、だけど、そうでないと、アーティストの伝えたいことは伝わらないから、当然、制限がないのが当たり前で、それでも、やっぱりちょっとざわざわするのは、自分も常識にとらわれているのだと思っていた。
参加作家
会場は2階にも続いていて、この陳列館の天井が、特に高く、気持ちよく、それにおそらくその時代にしかないような、特殊な造りが、でも、作品にあっていた。
恵まれた場所が、藝大には、多分たくさんあるのだろうと思った。
他にも、自分の理解の不足などもあって、おそらく十分にその魅力などがわかっていないのだろうけれど、他の参加作家の作品も質は高いのだと思う。
アンドレア・バウアーズ&スザンヌ・レイシー。小林正人。パク・サンヒョン。海野林太郎。
人によって、印象に残る作品も違うのだろうし、できたら、現場で見た方がいいし、それぞれの参加作家に「誰に見せたいですか?」という質問をして、それに対する答えも提示されているので、それも含めて、考えさせてくれるようになっているので、なんだか、ぜいたくな空間だった。
『東京藝術大学大学美術館 陳列館』サイト
https://museum.geidai.ac.jp/exhibit/2023/08/whoanatanoart.html