アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

書籍『誰のためのデザイン?』 D.A.ノーマン

 

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 認知工学者、認知科学者でもある著者がデザイナーであることで、おそらく初めてわかることが書かれているような気がした。
 デザインで使いやすが圧倒的に変わるし、事故につながるかどうかも知った。それだけ重要なことなのは間違いないようだ。
 
 例えば、スリーマイル島での原発事故について。

直後の分析ではヒューマンエラーであるとされ、オペレータの責任とされた。しかし私が参加していた委員会は、発電所の制御室のデザインが悪かったために必然的にエラーが起こったことを明らかにした。

 

 そして、デザインのことは、こうした重大な事故だけではなく、日常的なミスにも関わってくると断言している。

 何かがうまくいかないときは人に過失がある、という考えが深く社会の中で定着している。それが周囲や自分自身を責める理由である。(中略)

 しかし私の経験では、たいていのヒューマンエラーはデザインが悪い結果として起こるのであり、システムエラーと呼ぶべきなのである。人は絶えず誤る。それは我々の自然で本質的な部分である。システムのデザインは、この点を考慮すべきなのだ。人に責任をかぶせるのは問題を片づけるのに便利な方法ではあるが、いったいなぜ、一人の人の一つの行為が不幸を引き起こすようなシステムがデザインされたのだろうか。さらに悪いことに、根本を解決せずに人を非難しても問題は解決しない。同じエラーが他の誰かによって繰り返されるのである。

我々が「ヒューマンエラー」と呼ぶものは、単にテクノロジーのニーズに人の行為が適していない場合であることが多い。したがって、それはテクノロジーに欠点があるということを示している。

 さらには、利用者が思っているはずなのに、はっきりと語られないことの代弁もしているように思える部分もある。

高齢者を支援するためのすべての機器のなかで、おそらく最も遠ざけられているのは歩行器だ。これらの機器の多くは不恰好だ。それは「ここに障害者がいる」と叫んでいる。なぜ、それを誇りにできるような製品へと変えていかないのか。

  そして、デザイナーへの要求は高いけれど、もし、こうしたデザイナーが増えれば、世の中が生きやすくなるかも、とも思えてくる指摘もしている。

良いデザイナーは、与えられた問題を解こうとすることからは始めない。本当の課題は何かを理解しようとすることから始める。