アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

書籍 『アート/ファッションの芸術家たち』 ミッチェル・オークリー・スミス  アリソン・クーブラー 

 

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 大きくて重い本だった。

 パラパラとめくる。ファッションの写真が目に入る。

 そこには、ちょっと緊張感のある、ピシッとしたビジュアルが並んでいて、普段はあまり目にしたような出来事がそこにあるようで、ちょっと気持ちが覚めるようだった。

 少しながめただけで、この書籍の大きさは、写真を大きく扱うという意味でも必要なのではないか、と思えてきた。

 

境界を超えて:アートとしてのファッション   

アートとファッションの邂逅:コラボレーション  

美と知の競演:展示としてのファッション  

ビジュアル撮影の超越:新たなファッションメディア 

ブティックからギャラリーへ:ファッション×アート×建築 

 

 日常的な言葉とはちょっと違うのだけど、読んでいると、その言語を使う必然性があるのかもしれない、と思えてくる。

 

アートの力

 

この大きく変動するメディア環境のなか、

絶えず移ろいやすく、

正統で知的な批評文化を欠いた

モード界は、アート業界に手を借りることで

憧れの知の要素を獲得している。

ファッション誌は……ゲストエディターとして

アーティストを招き入れた。

またトップブランドと同様に、

芸術寄りの写真家と手を組んで

既存の枠を超えた

ビジュアル撮影に臨んでいる。  

 こうした言葉もあって、これは、わかりやすく言えば、ファッション界は行き詰まっているので、アート界に力を借りて、なんとか生き残ろうとしている、ということだと思うが、確かに、この書籍は、そういう試行錯誤の記録でもあるようだった。

 

現代美術家との

コラボレーションは、

商品に新たな創造性をもたらす。

従来のファッションとは

まったく異なる想像力が

必然的に生まれるのだ

 

 イヴ・カルセル、ルイ・ヴィトン最高経営責任者 

 

 近年では、村上隆草間彌生と一緒に、かなり目立つ活動をしているのが「ルイ・ヴィトン」で、それはファッションから遠い私のような人間でも知っている。

 

こうしたプロジェクトは、

デザイナーとアーティストが

単に提携を結んで

特定の柄や服をつくるという、

ファッション界にありがちな 

コラボレーションではない。

ルイ・ヴィトンはものづくりの工程に

アーティストを全面的に参加させ、

各プロジェクトを独自のやり方で

展開させた

 

オリヴィエ・サイヤール 

 

 そういえば、村上隆と組んだ「ルイ・ヴィトン」は、とても明るく、アートとはあまり関係なさそうな場所でもよく見かけた。

 

デザイナー

 

 アーティストの力を借りる前から、デザイナー自身がアート的な要素を持っている場合もあるようだった。

 恥ずかしながら、私は名前を知らない人ばかりだったけれど、その「作品」は、やっぱり目を見張るもので、ファッションも先を行こうとすると、すでにかっこいいのか、変わっているのか、よくわからなくなってくるが、でも、大げさに言えば、視点はちょっと変わるような気がする。

 

フセイン・チャラヤン

「チャラヤンの美学の根底には知的概念がある。しばしば社会的文脈にからめて語る彼の意識のなかで、ファッション、建築、そして芸術の境界はあいまいになっている」

メゾン・マルタン・マルジェラ

「マルジェラの批評的なファッション哲学は、不条理主義あるいは超現実主義と呼ばれる。コレクションでは(たとえば裏地を表地として使用するなど)既存の枠を超えた素材を用い、完成した服とは何かとの概念を問い直した」。

チュニジア生まれのデザイナー、アズディン・アライアは、ファッションサイクルという概念には無関心だ。彼は広告宣伝を避け、既存のファッションカレンダーとは無関係に、作品ができ上がれば顧客をアトリエに呼んで新作コレクションを披露する。

 もちろん、表面的なことを、しかもちょっと知っただけだから、愚かな発想かもしれないけれど、それでも、こんなふうに仕事をしていきたいと思えたりもする。

 

作品

 

 こうした中でも、個人的には特に面白いし、現在の生活状況では不可能に近いけれど、実際に見たいと思った「作品」があった。

 

 プラダ・マーファ

テキサス州のアートの町、マーファ郊外に建てたインスタレーションだ。(中略)

 建物は厳重に封鎖され、実物大のガラス製ショーケースにはニューミレニアムの貴重な文化的アイコン-----プラダのバッグと靴------がディスプレイされている(中略)やがて朽ちて荒廃し、骨董品の陳列棚となり果てるだろう。

  

 写真を見ると、周囲は砂漠の中に通る一本の道路。

 その道端に、突然、プラダのショップがある。だけど、それは、その中に商品が並べられているのだから、外から見ることはできても、中に入れないし、だから、もちろん購入することもできない。

 そして、この説明文にある通り、そのまま朽ちていくのだろうけれど、この情報を全く知らなくて、通りかかって、中に入れないプラダショップに出会ったりしたら、ちょっと怖いかもしれないけれど、新鮮な経験だろうし、時間が流れていくイメージも自分の中に浮かぶので、そういう意味でも、明らかに「アート」なのだと思う。