アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

書籍『芸術の設計 見る/作ることのアプリケーション』 岡崎乾二郎 

『芸術の設計 見る/作ることのアプリケーション』 岡崎乾二郎 

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 作品を作るだけではなく、批評もする、ある意味で圧倒的な存在で、独特な人が岡崎乾二郎で、どこか近寄りがたい存在でもあった。

 この本も、以前から、そういえば図書館の棚にずっとあって、その背表紙は見ていたが、何か寄せ付けない気配を漂わせていたように思い、敬遠していたのかもしれない。読んで、確かにその予感ははずれてはいなかったのは分かった。厳密すぎて、それは、すごいけど、恐さもやっぱりあった。

 その中で、自分が印象に残った言葉がある。自分が部分だけを抜き出すのは、もしかしたら正確性を欠くかもしれないが、それでも書いて、残したほうがいいと思った。

 

彫刻であれ、絵画であれ、インスタレーションであれ、ランドアートであれ、写真化されないことには美術作品は美術作品として固定されない。 

 確かに、本当のことだった。

もしもあなたが世界で活躍する現代美術家になろうとしているなら、まっさきに、デジタルカメラとパソコンとプロジェクタの三つを購入することを考えるかもしれない。じっさい、これらの道具が手に入りさえすれば、すでに現代美術というジャンルに繰り出す準備ができたといっても過言ではないだろう。なぜなら、いまやほとんどの現代美術の作品は、この三つの道具を使って作られているようなものだからだ。

 改めて、これもある意味で、とても本当のことだと思う。

先行する美術作品を引用することで美術作品は作られている。そのうえで誰かの作品に引用され、そのイメージが流通することが、その作品は美術作品であると保証する。すなわち、どのような背景から作品が作られているか(どう作品を受容すればよいか)がわかるということ、一目で誰の作品かわかるということこそが、現代美術の条件なのだ(逆説的だがリヒターの場合、手描きなのにレディメイド的な匿名性があることが、そのトレードマークである)。

 ここまで断言できるのは、すごいと、改めて思う。

現代美術とはパッケージングの技術であり、既存の流通形態を拠り所にしているものだ。そしてその流通の基盤となるのは写真であり、世界をイメージに還元する技術である。そこでは作品の「主題」も、作者という「主体」も、ともに流通のためのアリバイにすぎない。つまり「イメージ」であるということが、流通の前提なのだ。そもそも写真は、どんなものでもイメージ化して等価に扱うことができる。また写真は、たとえ自分が被写体そのものを作っていなくとも、それをイメージとして所有し、流通させることを可能にする。いわばそれは、自分が作っていないものも、自分が作ったことにする技術なのだ。

 こうした言葉に関して、全部はとても理解ができない。ただ、とても大事なことを示しているのは、わかる気がする。

制限されたなかにいかに無制限な情報を入れ込むかが、絵画の問題なのである。

 とても短い言葉で、絵画のことを、ここまで的確に語っている、と思う。