以前、初めて訪れたギャラリーは、昔、友人のアパートによく通っていた街にあった。それも、あまりアートとは関係のない商店街の隅に、急に現れるようにあって、それも含めて新鮮な経験になった。
今回は、駅から前回とは違う道を歩いた。禿頭坂という名前のゆるやかな坂道を上る。この前と違って、そのまま大きい道路を歩いていって、少しかっこいいラーメン屋や天ぷら屋などもあった。そして、目印のコンビニを右折して、微妙に下ったり曲がったりする、それほど広くない道を行くと、人だかりがしていて、それはスイミングスクールで、終わる時刻に保護者が集まっている場所で、そこからもう少し坂道を下ると、急にギャラリーがある。
この突然の感じは、二度目でも変わらなかった。
『日々』 村松佑樹
https://leesaya.jp/exhibitions/daytoday/
前回と違って、今回は、外から中も見えて、並んでいる作品もわかる。
そこには、絵画があって、10数点ゆったりと並んでいる。
描かれているのは、おそらく、誰にとっても身近と言えるようなものだと思う。
観葉植物。緑。風景。おもちゃらしきもの。
さらには、その絵画の表面には、何かシールのようなものが貼ってあったりもするが、その絵画には、自分が見たものとは決してイコールではないのだけど、なんだか懐かしいような、見たことがあるような感じがする。
その上、室内を含めて風景画は、すでに長い年月にわたって、様々な人が描き続けてきて、その中には偉大と言ってもいい画家やアーティストも少なくない。
だけど、見ていて、村松の作品は、なんだか若い感じがするし、新しい印象もあった。
視点
穏やかな明るさの静かな絵画。
どの作品も、そうした印象は共通している。
育てている観葉植物、遠くに見える山々、雑木林の土の匂い、子供の集めたトミカ、静かな暗い夜、どこかで鳴っている雷の音。
身の回りのモチーフに目がいく様になったのは、コロナ禍で地方に移住し、何てことのない日々の瞬間と向き合うことになったからかもしれない。
部屋の片隅にあった切れ端を手に取り、無作為に貼り始める。その合間に脈絡のないモチーフを並べていくと、意図しない完成がやってくる。
この数年、儘ならない状況の中で制作と向き合うことが「セルフケア」になっていた。
とても私的な動機で作られた作品群であるが、誰かをケアするものになっていたらとても嬉しい。 (作家ステートメント 「LEESAYA」サイトより)
こうして目の前に見ている作品は、ただ、目の前に見えている身近な光景が描かれているわけではない。
作者の村松が見ている風景というか、その視点が再現されているはずだ。作者が移住をし、コロナ禍もあり、改めて、身近な風景を新鮮な気持ちで見ていて、その視点が、作品として形になっているように思えてくる。
コロナ禍に第二子が誕生し、移住先で新しい職に就き一から生活を始めて行くことは容易ではなかったと想像します。慣れない暮らしの中で身の回りのものを見つめ描くことは作家にとって自己治癒として機能していたと話します。
世界中の誰もが空白の3年間を孤独に過ごし、今またとてつもなく早いスピードで元の日常に適応することを迫られています。村松の画面を通して、日々の暮らしの尊さと穏やかな時間の流れを改めて感じていただきたいと思います。
村松佑樹の個展 日々 を是非ともご高覧ください。 (「LEESAYA」サイトより)
あまり詳しくは知らないので恥ずかしいが、美術史を少し振り返れば、印象派のように感覚を形にするだけではなく、そこにあるものを「こう描きたい」という意志を形にしたから、セザンヌは「近代絵画の父」と言われるようになったはずで、そうであれば、その後の美術作品は、見えたまま、感じたまま、というよりは、こう見えている、という作者の視点が明確に表現されているはずで、それがあってこそ、少なくとも「近代以降」の新しさを初めて持てるのだと思う。
村松の作品には、作者の視点が明確にあった、と思う。
そして、村松が「セルフケア」として機能していた絵画は、村松は現代美術家でもあるはずだから、その機能自体が作品にも宿っているはずだから、それで、穏やかさを感じたし、そして、その作者の最近の視点も形になっているから、「新しく」感じたのだろう。
さらに今回、このギャラリーの名称が、オーナーの名前だったと知った。ギャラリーの名前としても響きが美しいと思った。
「LEESAYA」サイト