『ワールド・クラスルーム』サイト
https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/classroom/index.html
1990年代以降、現代アートは欧米だけでなく世界の多様な歴史や文化的観点から考えられるようになりました。それはもはや学校の授業で考える図画工作や美術といった枠組みを遙かに越え、むしろ国語・算数・理科・社会など、あらゆる科目に通底する総合的な領域ともいえるようになってきました。それぞれの学問領域の最先端では、研究者が世界の「わからない」を探求し、歴史を掘り起こし、過去から未来に向けて新しい発見や発明を積み重ね、私たちの世界の認識をより豊かなものにしています。現代アーティストが私たちの固定観念をクリエイティブに越えていこうとする姿勢もまた、こうした「わからない」の探求に繋がっています。そして、現代美術館はまさにそうした未知の世界に出会い、学ぶ「世界の教室」とも言えるでしょう。
これは、サイトの「概要」でもあるのだけど、こうした「わからない」を感じたり、考えたりしていくのは、これまで見てきた現代アートと言われるジャンルの作品を見るときの動機になっているし、それでいて、全部とは言わないけれど、「わかった」と思えた時の視点の変化のようなものも、こうしたアートに接するときの重要なことだった、と改めて思い出す。
これから「わからない」に対しての免疫をつくっていく、必要以上に恐れず、というよりは、「わからない」ことを楽しめるようにならないと、たぶん、これからは、生きていくこと自体がより困難になっていくような気もするから、こういうことをテーマにしていくことも、やはり大事なのではないか、と思った。
展示の最初は、ジョセフ・コスースだった。
別の場所で、この作品を見たときに、これを大真面目に作品として展示していくことそのものがなんだか、すごいと思った。
シャベルが吊り下げられている。
そこに、シャベルの写真。
さらに、シャベルを説明している文章。
それが並べられている。
コンセプトが重要だ、ということを示すために、その3つの要素を並べる。
これが作品として成立する現代アートの世界。それ自体が、どうかしているのではないか、という思いと、こうした作品の意味を考えると、それが現代アートに近づけることだと思う。
だから、この最初は、容赦なくもあり、親切でもあると思った。
作品は150ある。
だから、かなりの数を見たとしても忘れてしまうし、おそらくは、人によって印象に残ったり、好ましかったり、美しく感じたり、わからないと思ったりする作品も違ってくるはずだ。
それでも、視覚的に構成された作品があって、その横に並ぶ作者と作品名だけではなく、その「意味」も説明する言葉があるだけで、その作品の見方が変わることもある。
自分そのものを使って、撮影し、そのことによって、西洋の美術史に入り込むといった意味があるのだけど、最初に見た印象と、どんどん変わってくる作品で、しかも、今回は、同じテーマの作品が並べられているが、その制作年は30年違う。ということは、それだけの年月が経っても、自分の体を使っているから、その年数も含めて、やはり表れているはずで、そういうことも含めて、いろいろと考えさせられる。
ミヤギフトシ。
すっと入った少し暗い部屋で映像作品が流れている。
言葉は英語。字幕を見ながら、沖縄の静かな時間が流れ、その上で、昔のことと今のこと。日常的なことと、歴史的な出来事が、あまり区別されずに語られていく。
とても静かな時間が流れていた。
他にも、いろいろな作品があって、それは意味を知ると、見え方が変わってくるようだった。
ただ、古いツボを落として割っているような「アイ・ウェイウェイ」が並べている写真。きれいな田園風景のような写真を並べているヴァンディー・ラッタナ。なんでもないような街の写真を撮影しているハラーイル・サルキシアン。古い看板が並べているだけのジャカルタのアーティスト。
それぞれ、キャプションのような説明文が添えられている。
ツボは、2000年くらい前のものらしい。田園風景の共通点は、どれも窪みのような場所が写っていて、そこは戦争の際に爆撃された跡だという。街の写真は、以前、公開処刑が行われた場所だった。古い看板は、新しいものを製作する代わりに、それまでのものをもらってきて、ここで展示されている。
そうしたことを知って、もう一度見ると、その作品が違って見えてきたりする。
そういうところが、現代アートの面白さでもあると思った。
作品の力
映像作品も少なくなく、そうした作品を見るには、時間もかかるが、ずっと飽きずに見られるものもある。
スイスの2人組アーティストのペーター・フィッシュリとダヴィッド・ヴァイスによる《事の次第》は、パッとみたら「ピタゴラスイッチ」と思えるようなことが延々と起こり続けているが、炎や化学反応も使っていて、かなり荒々しい印象もあるが、ずっと見ていられた。30分。
そして、作品を見ただけで、作家の名前が浮かぶような、いわゆる有名作家や、巨匠と言われる人たちの作品も並んでいる。
青山悟の作品。
リーマンショックなど、ここ20年ほどの大きな出来事に関わる「ニューズウィーク」の報道を、その雑誌を刺しゅうによって再現しているが、その裏には、その雑誌掲載時に載っているものがそのまま再現されていて、それも、その時代のことを伝えているように思える。
宮永愛子。
六本木に居住通勤する人の靴をモデルとした彫刻という、この場所に意味がある作品を、ナフタリンで製作している。それを密閉された透明な箱に展示されているが、その彫刻は昇華して、形は崩れていくが、その昇華したものは、ケースの裏側に結晶のような形を作っている。この計算された形と、計算できない造形の両方がここにある。
李禹煥。
大きなガラスの上に、大きい石が置かれている。それを見ただけで、作者の名前が頭に浮かぶ。それだけ、作品そのものが「有名」になっている。その向こうには、絵がある。最低限の要素だけで描かれた、その形は、とても潔くて、かっこいいような気持ちにもなる。
ただ、観客のぜいたくな要望としては、もう少し広いところで、作品以外にもたっぷりと余白があるようなセッティングで見たいとも思ってしまう。それは、これまでにもいろいろな場所で、この作家の作品を見てきたし、それだけの機会を作れるのが「巨匠」ということかもしれない。
宮島達男。
少し暗い部屋に入る前から、中の作品の予想がつく。
LEDのデジタルカウンターが、9から1を示し続け、0を表すときは、光を失う。
そのカウントの速度がそれぞれ違うカウンターが、多く並んで、それは、さまざまな意味を持っているのは作者によって示されているのだけど、その光の点滅に見える作品は、しばらくぼんやり見ていたくなる美しさがある。
下手だけど、こうしてすぐに説明ができるくらいは見てきたし、基本的なスタイルがずっと変わらない。
今回は、1万個のカウンターが並んでいるから、これまでよりも一つあたりの数字が小さく見えるから、より赤い点が点滅し続け、それが不規則に変化しているように見えるから、完全に人工物であるのは分かりながらも、どこか自然のものに接しているような気持ちになり、座って見ていると、ぼんやりして、ちょっと気持ちが良くなる。
奈良美智。
アートに興味がなかったのに、30歳を超えてから、特に現代アートに興味を持ち続けることができたのは、奈良美智の作品や、その姿勢に興味を持ったことも大きな理由の一つだった。
どこか不穏な目つきの女の子。というイメージが先行し、そして、立体も、小屋も焼物も製作してきたのだけど、この日も、奈良の作品の周りで、誰かが誰かに説明している言葉は「頭の大きな女の子の絵」というものだった。
確かに、ずっと、同じように見えるかもしれないが、今回の作品は2020年制作のもので、私にとっては初めて見る作品だった。2020年にこの美術館で行われた展覧会のために制作されたものらしく、そのとき、コロナ禍に怖さを感じ、都心部の美術館には来れなかったから、今回見られるのは、うれしかった。
その作品は、どこか崇高さも讃えているような気配があった。
そばで見ても、絵画であるのだけど、その描いている人物が、その画面よりも、少し遠くにいるように感じる。さらに、質感が滑らかで、同時に密度も高く思える。
座って見ていると、穏やかな気持ちになった。
「哲学」というテーマで括られた中に、この作品があることに納得がいくような気持ちになる。
こうして、ベテランや、巨匠とまで言われるようになれば、いつも同じもの、といった見られ方を、奈良だけではなく、李禹煥も、宮島達男もされていると思う。それでも、もちろん詳細に全作品を見ているわけではないのだけど、そのスタイルを保ちながら、作品の強さをあげていっているのだと思うし、そうでないと、こうして長い年月の間、人の気持ちを動かすような作品を製作し続けるのは無理だと思う。
パフォーマンス
最後の展示は、ほぼ一部屋を使った作品だった。
ヤン・ヘギュ。
「総合」というテーマで展示されているのがわかるように、とても多くの要素があるのは、わかる。この作品については、説明を読んでも、テーマが大きすぎて、わからない部分も多かったものの、新しさのようなものは感じたし、大きな立体を覆っているものが、小さな無数の鈴だと思うと、急に身近にも思えた。
これで終わりで、出口に向かう頃に、スタッフがこの展示室に集まるようにやってきて、そして、ここから先には入らないように、といった柵(行列の整理の時に見るような)のようなものを持ってきて、もしかしたら、団体が来るのかと思って、早く出ようと思いながらも、「何をやるんでしょうか?」と聞いたら、「これからパフォーマンスをやりますので、よかったら」と言われ、他の観客と一緒に始まるのを待った。
天井から鎖のようなものがぶら下がっていたし、もしかしたら、この2メートル以上はあって、重そうな立体が宙を飛ぶのか、それとも作家本人が現れるのかと思っていたら、おそらくは美術館の黒いスーツを着たスタッフが一列になって歩いてきて、その立体の周りを囲み、真ん中に立っているスタッフの「回転」といった声に合わせて、その立体を遊具のように回し始めた。
そういえば、この立体には車輪がついていた。
しばらく、そうしたいってみれば軍隊的な動きをして、作品に動きを持たせて、少し鈴の音も響いたあと、また、同じように一列で撤収し、さらに、その用具などを片付けるところまでを見ていた。天井からぶら下げっていた鎖のようなものは、立体が、たとえば地震のようなことで走り出さないために止めるもので、再び、立体とつなぐ作業までしていた。
おそらく作家の指示通りに動いているのだろうけれど、黒いスーツで、それも、普段は、こうした動きには慣れていないような、アート関連の人たちが動いている、ある種のぎこちなさも含めて、いろいろなことが新鮮で、とても面白く、パフォーマンスまで見ることができて、とてもラッキーだった。
同時に、普段の業務に加えて、こうしたパフォーマンスまで見せてくれたスタッフの方には、ありがたい気持ちにもなった。
気がついたら、美術館に入ってから約3時間がすぎていた。
説明
今回は、わかる、ということよりも「わからない」ことの大事さも、展覧会の狙いとしてはあったようだった。
確かに、見て、全部がわかるような作品だったら、面白くない。
かといって、全く何もわからなければ、ただ、通り過ぎて忘れてしまい、二度と、そうした現代アートには近づきたくなくなってしまっても、不思議ではない。
特にアーティストのイメージは、今は少し変わってきつつあるのかもしれないが、少し前までは、自分の作品の説明をすることを嫌う、というか、カッコ悪いことと思っている人が多かったように思う。
それを感じるのは、個展であっても、作品の横にある小さい紙などには、製作年と、作品タイトルが並ぶだけで、他に何もなく、白い壁が広がるだけ、という展示方法を、好んでしているアーティストが多いように感じていたからだ。
例えは、悪いけど、「一見さんお断り」のように思えていた。
それでも、魅力的で興味があれば、ただ作品を見るだけではなく、名前を覚えて、検索したり、著書があればそれを読んだり、その人が出品している他の展覧会に行ったりして、自然と学んでいけたと思う。
個人的な経験にすぎないけれど、私は困窮している時ほど、アートを見て、知らないうちに気持ちを少し支えられてきた気がするから、そうしたことをしてきたけれど、そこまでする鑑賞者は、ごく稀で、だから、最初に現代アートの作品と、何かの拍子に接する機会があるときに、作品を見て「わからなさ」に包まれて、だけど、何かが引っかかって、そのときに、その傍らに、最低限の、この作家の背景や作品の意味を説明してくれる文章さえあれば、全部が分からなくても、興味が持続して、それで、いつの間にか、現代アートを鑑賞することが生活の一部になるような気がする。
今回の「ワールド・クラスルーム」では、どの作品の傍らにも「説明」があった。
それは、読んでも返って「わからなくなる」こともあったものの、それでも、多くは、作品を見て「わかること」があり、そのことで、また作品を見ると、見え方が変わることも少なくなかった。
実は、今回の展覧会の特徴は、作品の傍らに設置されている「説明」で、それは、全ての意味を明らかにするのではないが、鑑賞者が「わからなさ」を自分で考えられるだけの材料を提供してくれているようで、その加減がかなり考えられているのではないか、と思った。
だから、今回の展覧会は、現代アートに興味があるけれど、どこへ行けばいいか分からない、と思っている人に、適しているのではないだろうか。比較して申し訳ないのだけど、これまで見てきた「現代アート入門」をテーマにした展覧会よりも、今後、長く現代アートに興味を持つために適した「現代アート入門」の展覧会になっているようだった。
さらに、うれしかったのが、展示室のあちこちに比較的多くイスがあり、それも座って、作品を鑑賞できる位置にあって、しかも、座った瞬間にふっと柔らかく、適度なクッションがあることだった。
そういう実用的な部分への気配りもありがたかった。
『ワールド・クラスルーム』 図録