あの「ゴッホ」の弟に焦点を当てた作品。
兄ヴィンセントは弟テオなくして、画家ヴァン・ゴッホたりえたか?98通もの未公開書簡を軸に弟テオの画商としての生涯に光を当てた初めての伝記。“ふたりのゴッホ”の芸術創造のドラマ。
これが、本の内容を紹介する文章だった。
この本を読むと、ゴッホが、思ったよりも孤独でなく、自殺の理由も経済的なものが大きかったのかも、と思うと、本当によくある話かもしれない、とも思ってしまう。
ただ、その才能が普通ではなかったのは間違いないだろうし、弟のテオの死因が梅毒かも、ということとかも初めて知った。画家ゴッホの生涯を、勝手に純粋な悲劇として思い過ぎていたのかもしれないとは思うのだけど、でも、この兄弟の結びつきはやっぱりすごいと思った。
兄の画家・ヴィンセントに、弟・テオは仕送りを続ける。
月100フランの仕送りをすることになり、そしてそれはすぐに一五〇フランになった。画材やモデル料、食費が高かったのだ。
テオは生涯、この契約を守ることになる。
テオは画廊で働き、ただ、その組織の中で順調というわけではなかった。
それでも、モネとはしっかりした関係を築き、後期印象派の画家たちを支持し続けたようだ。
兄だから、と盲目的に全部の作品まで評価したわけではない、ということは読者としては少しホッとする部分でもあったけれど、作品そのものを評価する冷静さは、ずっと持っているようだった。
『馬鈴薯を食う人々』(中略)テオの鋭敏な感覚は、即座にこの絵の力強さを感じとった。ヴィンセントの仕事に、あれほど望んでいたものを、初めて認めた瞬間だった!
同時に、兄・ヴィンセントの弟・テオに対しての気持ちが、かなり思い詰めたようなものだったのも改めて知る。
三つの要因が絡み合った結果と分析する。決定的となった金不足の問題。テオとヨーの結婚(その帰結としての小さなヴィンセントの誕生)。そしてテオの病気だ。
そして、ヴィンセントは自殺したが、自身を拳銃で撃ってから、絶命するまで時間があった。その時間の間に、テオは駆けつけた。
二人は長いことオランダ語で語りあった。その内容は誰にも知られていない。
そして、その翌年に、テオも亡くなってしまう。
テオ・ヴァン・ゴッホは精神病院で息を引き取った。三十三歳で、絶望にうちひしがれた若妻と一歳に満たない息子を残して。
もしヴィンセントが自殺していなかったら、おそらく梅毒によって激しく衰弱したテオの方が先に死んでいたろうと予想される。
その後、画家ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作品を評価させる戦いは、続いた。
(テオの妻)ヨハンナが彼の闘いを引き継いだ。
彼女が掲げた松明は息子にと引き継がれた。
ヴィンセントの絵に対する、専門家、愛好家問わず高まり続ける熱狂ぶりを目にして、一九六二年に、テオの息子は自分の所有する作品の大部分を莫大な額でオランダ政府に譲渡することにした。〈呪われた画家〉はついに自分の美術館を持ったのである。
これは、やはりすごいことだと思う。