2024年8月21日。
気温が高い時は、目黒駅から10分くらいはかかるので、歩くと体力を消耗しそうだから、と思い、バスを使う路線を調べたら、中目黒駅からのルートがあった。
それで妻とも相談し、その路線のために中目黒駅で降りて、改札を出て、街を見るたびに、どんどんオシャレになっていく風景を見ながら、昔はこんなじゃなかった。特に線路下は、なんだかきれいと言えない居酒屋が並んでた、みたいな話をしながら、道路を渡り、初めていくバス停に向かって、いつ来るかわからない不安と共にバスを待つ。
それほど待たないでバスは来て、そして、それほど長く乗らないで、初めてのバス停でバスを降りる。自分にとっては見たことがない光景だった。ラーメン二郎がある。妻は、大丈夫、このへん、近いと思う、と言ってくれたので、少し歩いたら、目黒区美術館を指し示す看板があった。
目黒駅から来る方向とは全く逆だったので、わからなかったが、とにかく、無事に着いた。
平日なのに、人が思ったよりもいた。
生誕130年 武井武雄 展 〜幻想の世界へようこそ〜
https://mmat.jp/exhibition/archive/2024/20240706-428.html
(「目黒区美術館」サイト)
幻想の世界へようこそ。
そういうサブタイトルがつけられていたが、チラシがこけしだったので、ちょっとピンと来なかったものの、「童画」と言われた絵画作品を見ていくと、その印象は変わった。
それは幻想、という表現をするしかないとは思うけれど、武井武雄自身が、魅力的だと思う世界を見る人間に、そのたびに新しく提出するような作品だと思った。
「童画」と名付けられているし、主に子ども向けの雑誌の挿絵として使われていたはずだけど、絵の密度は高く、しかも3次元を技術を使って描くというよりは、あくまでも2次元の完成した世界を見せて、その上で、そこで楽しめるような作品だと思った。
子ども向け、ということにとどまらず、それは、もちろん勝手ながら自分の好き嫌いはあるとしても、魅力的な作品が多かった。
特に、キャプションを見ると、かなり晩年に描かれた絵画は、背景も複雑な質感になっていて、登場している妖精も魅力的だった。
こうした作品を戦前から戦後にかけて、ずっと描いていたことを考えると、改めてすごいと思ったし、妻は、こうした作品を覚えていて、だから見に来たいと思ったらしい。自分自身も、おそらくどこかで見ているはずで、そして、これだけの質の高さがあるのだったら、気がついたら自分も影響を受けている可能性も低くない。
自分が知らないだけで、「童画」と言われる世界で、こうした意味のある仕事をしている人がいることを、恥ずかしながら初めて知った。
武井武雄が、この「童画家」を目指した動機ははっきりしているようだ。会場にも、図録にもこの経緯が説明されている。
東京美術学校(現 東京藝術大学)を卒業し、洋画家を目指し精進していたが、結婚し、生活のためもあって、雑誌の挿絵を依頼される。
当初は武井もアルバイト気分であったが、半年ほど描いているうちに、多くの画家たちが片手間で、絵自体は上手なのだが、子どもの魂に触れるようなもの、精神的な感動を引き起こすものがないことに憤りを覚えるようになった。そこで彼は自ら反省し、アルバイト根性で行っていたことを180度転換し、“男子一生をかけて子供のために自分の能力をささげても、これは男子として恥ずかしくないことだ”と童画家と云う道を邁進することを決意する。
(『武井武雄 幻想の世界へようこそ』より)
それが大正時代の中期だったのだけど、昭和に入った1927年には童画家の地位向上を目指し、日本童画家協会を結成している。
その協会のメンバーが揃っている写真も会場に飾られていた。
武井以外は、カメラをにらむような表情で、怖い雰囲気もある。ただ、この時代に「童画会」を結成した画家が、どのように見られていたのかを想像すると、今では考えらないくらいの侮蔑的な態度をとられていた可能性もあるから、それに対しての戦闘態勢と考えると、この写真に満ちている「イキリ」の気配も納得ができる。
ただ、その中で武井だけが視線をこちらに向けていない。そして、おそらく、この「同化会」のメンバーの中で、いろいろな運に恵まれていたかもしれないが、最も長く「童画家」として活躍し続けていたのは、武井ではないかと思うと、また不思議な気持ちにもなる。
刊本作品
「童画家」も、それほど確立された肩書ではなかったはずだけど、武井武雄が戦前から戦後も費やして、磨き上げて行ったように見える。現実ではない夢の世界、という描き方ではなく、武井にとっては「実在」するような世界として描かれているから、ただ柔らかかったり、夢のある世界という印象ではなく、そして、他にはないような独特な世界でもあるようだ。それは、他の作家と見比べた上で、妻が話してくれた。
同様に、最初は豆本といわれていたものを「刊本作品」という造語も自ら提案しながら、「本」を美術作品にしていったのだけど、そのことを、これまで全く知らなかったが、それをもったいないと思えるほど、展示のためにガラスケースに並んだ「刊本作品」は美しかった。絵画が織物になっていたり、陶器が使われていたり、「本」という形式をとった美術作品のようだ。
こうしたすごい作品を、これまで全く知らなかった。
この「刊本作品」も、会場の説明や図録にもあったのだけど、自身も政策に関わった「創作玩具展」で、来館者への御礼として制作された小冊子が始まりだった。
当初は展覧会に興を添える程度のつもりであったが、最終的には亡くなる直前まで、全139作品が作られ、武井のライフワークとなった。
(『武井武雄 幻想の世界へようこそ』より)
童画も最初はアルバイト感覚であったのが、子どもの魂を揺さぶるような作品にしなければ、と取り組み始めたり、「刊本作品」も最初は来館者への御礼のつもりだったのが、その制作過程も、会場には書かれていたが、本当に心身を削るような「作品」になっている。
武井は、ある意味では偶然に身を任せつつも、その自分の偶然に対して、自分の使命のようなものを見つける力があり、それに一生を賭けてしまうような素直さがあることに、やはり凄みとともに、不思議な人だという印象にもなる。
「刊本作品」を前に。
という写真が展覧会会場にあって、それは文字通り多くの「刊本作品」を前にしている武井がいるのだが、最初は喜びなのかと思って、よく見ていると、そこには悲しさや、虚しさや、あきらめのような表情まで混じっているように思えた。
もちろん個人の印象に過ぎないし、単純に写真を撮られ慣れていないか、写されるのがあまり好きではないことで、そうした悲しさのような感情があるように見えただけかもしれない。
ただ、自分の才能と手間と時間を、あまりにも膨大に、この「刊本作品」に費やしたことを、多くの実物を目の前にして、その記憶のようなものが押し寄せてきて、ちょっと呆然としている。
それでも、写真は、そんなふうに見えるほど、目黒区美術館で見た「刊本作品」は圧倒的に見えた。
この「刊本作品」について、こうした説明がある。
刊本作品という名には、「本という形式と素材によって表現する美術」の分野を確立したいという武井の強い願いが込められている。
戦後、武井芸術やこの刊本作品を愛する人々が中心となり、“刊本作品友の会”が結成され、刊本作品を入手するには、この会に所属する必要があった。美の追求のため、利益を考えずに原価で会員のみに頒布するという武井の方針もあったので、刊本作品を第三者に売買してはならないなど、会員には厳しい規則が課せられていた。また300人の正規会員になれずに空きを待つ“我慢会”や“スーパー我慢会”も存在していた。
(中略)武井は「会員は家族」という意識のもとに分け隔てなく交流した。ゆえに自らを含め、会員たちは「親類」とお互いを呼び合っていた。
新作の刊本作品が完成すると刊本作品の解説や交流を目的とした頒布会が開催され、親類へ感謝の気持ちを込めて記念品の贈呈なども行われた。
(『武井武雄 幻想の世界へようこそ』より)
こうしたことを知ると、武井にとって「刊本作品」は、作品以上のものだと感じるので、本当だったら美術作品として原価ではなく、もっと作品としての価格設定をした方が、その後、こうした作品を制作する人たちにとってはプラスだったかもしれない。
さらには「刊本作品」が、原価でなく美術品としての価格で武井が販売してくれていた方が、紙の出版物の存在意義が薄くなっていくこれからの時代もモデルケースとして成り立ちやすかったかもしれない。
だけど、展覧会で、いろいろな作品を見て、文章を読んで、考えると、武井武雄にとっての優先事項は、みんなが仲良くしている平和な世界だったのではないか、と思うと、「刊本作品」を原価で頒布する友の会は、武井にとっては、とても正しいことだったのではないかとも思えてきた。