アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「エモーショナル・サイト」。2002.11.16~11.24。食糧ビルディング。

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「エモーショナル・サイト」。2002.11.16~11.24。食糧ビルディング。

 

2002年11月23日。

 食糧ビルがなくなり、そこにあるギャラリーもなくなる。

 それで、そこにあるギャラリーが共同で、もうすぐ壊されるビルを使って展覧会をやる。

 

 最初はただ古くて特徴があるビルで、何だかドラマに出てきそうな建物で、と思ったら、ホントにロケに使われていたそうだが、ここにあるギャラリーで、村上隆の作品で心を動かされたし、つい先日は内藤礼の展覧会も見たし、木村太陽を直接見たのもここだった。まだ、観客として歴史の浅いアートファンでも、それなりの記憶がすでにここにあるということは、やっぱり重要な建物だったのだろう。

 

 会期は、1週間くらいだったが、その最後の1日前に行けた。いつもガラガラで人の気配さえ薄く感じる場所なのに、入場するまでに約30分かかった。このビルの周りを人がグルっと、丸1周は取り囲んだ。入場料は500円。いつもは無料なのに、という気持ちもあるが、後で見たら、参加費と書いてあった。

 

 いろいろな作家の作品があった。須田悦弘の作品は、その中でも印象が強かった。壁にこぶしの花が咲いていた。それは、このビルが食糧ビルという米市場として栄えた過去にゆかりのあるこぶしだった。それに、もう一つ、1階の募金箱の中にある落ち葉の一枚が作品だった。それは、人の思いが集まる場所で、ウイットというよりウエットな感じがした。

 

 中村哲也の作品は、映画「バックトゥーザフューチャー」で、時間を超える時のクルマ炎を立体があった。それは、2つが並ぶような立体で、完成度が高く、その間を妻が走って、スタッフに注意されていたが、その気持ちは分かるくらいの作品だった。奈良美智は、自分の仕事場のように作品だけでなく、あちこちの壁にも描いていた。三宅信太郎は、中庭でパフォーマンスをやったそうだけど、それも見たかった、と思った。

 観客が、今日は、たくさんいた。

 森村泰昌の作品は、人がいっぱい並んでいて、見るのをあきらめた。

 全部で、30人以上の出品作家だった。

 

 後になって、この展覧会に関する文章を読んだ。

「美術手帳2003年2月号」。

 そこで、この「エモーショナル・サイト」の入場者数が1万3千人を超えていたのも知り、それはすごいとも思ったし、ここをアートセンター化できなかったか?という無念の気持ちがある人もいるらしい、とも知った。

 

 当日、渡してくれたチラシも最後は、こうした文章だった。

「大切なのは、建築物が人間との関わりの中で生きも死にもするということである。サイトスペシフィックという言葉も一般化して、個別の場の魅力や建築空間の読み方がアーティストの仕事にも問われている。食糧ビルはサイトにこだわるアーティストの最良のスタジオとなってきた。ここで良い仕事が生まれることが、いわゆるハコ優先の美術行政に異を唱えることに時間を費すよりずっと実り多かったと思う気持ちも関係者の中にはある。残念なのは普通の、豊かな空間を内包する建築を失うことに今、日本人が無力なことだ。

『エモーショナル・サイト』は、関わる人の意志によって質の高い「思い出空間」を生むだろう」。 小池一子  (旧佐賀町エキジビット・スペース主宰)

 

 

(2002年の時の記録です。多少の加筆・修正しています)。

 

www.art-yuran.jp