アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

関優花  個展「うまく話せなくなる」。2018.4.9~4.15。rusu「ナオナカムラ」

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関優花 個展「うまく話せなくなる」。2018.4.9~4.15。rusu「ナオナカムラ」

 

2018年4月13日。

 美術手帖のサイトを見て、初めて聞いた作家の、初めて知ったギャラリーの個展に行きたくなったのは、話すことをテーマにしたパフォーマンスがある、と知ったからだった。自分も聞く事が仕事と密接に関係しているので、話すことについても興味も強く、それだけで行こうと思っていた。

 

 目黒駅で降りて、雅叙園を通り過ぎる。そこからは、初めて通る道で、そして、広い道路を渡って、ギャラリーのホームページにあった地図には目印としてラーメン屋があるのだけど、近くに2軒もあって、どちらかと思いながらも、片方にヤマをはって歩き、違うかもと思った頃に本当にどこにでもある古い一軒家の前にギャラリーの看板らしきものがあった。

 

 靴を脱がなくてもいいのに、玄関だからと脱いであがったあとに、気がついた。玄関で聞こえる声は、録音されていたもので、地球から星を見た時に、明るさ順に、その星までの距離を覚える、という内容だった。説明に近いことを、話しているから、妙にたどたどしいのだろうけど、太陽が一番明るい星だと、改めて気づく。そして、一番、近い。「星までの距離を覚える」。

 

「太陽まで走る」。日の出から日の入りまで、太陽を追いかけて走り続けて、それを主観映像で記録しただけの作品、ただ、それが12時間かかっているし、50キロを超える距離を1日で移動しているのを知ると、その映像がすごく意味があるものとして見えてくる。しばらく見たのだけど、実際は8時間もあるので、と思ったが、考えたら、この展覧会は1日に8時間やっている。

 

「歌舞伎町24時間マラソン」。歌舞伎町に1周2キロのコースをつくり、24時間は走り続けた、という作品。

 

 あとは、気になっていた「≒」という映像。100キロのチョコの固まりを、体重計に乗せ、自分は隣で、体重計に乗りながらなめて溶かし続ける。何日かかかっていて、自分と同じ重さにまでしていく、という作業。何かを考えようとして、見ていると、考えられなくなってくるような凄さがあった。

 

 そして、「うまく話せなくなる」。

 展覧会場にいる時に、ずっと声が聞こえている、と思っていたら、一番奥の部屋に作者がいて、ストリートビューの映る画面を見ながら、それを描写し続けている、という作品。丁寧語で、もう何時間も続けている可能性もあるし、会期中はずっとやっていたらしいので、もう5日目になるはずなのに、投げやり感や、嫌になった感はなくて、それも含めてすごいと思えて、そして、しばらく聞いていたら、疲れなども含めて、とんでもない表現も出るかと思っていたが、かなり冷静で乱れもないまま、続けていた。どんな気持ちなのだろうと思ったが、話しかけにくかったのは、こちらがアートのパフォーマンスには声をかけてはいけない、と思っているせいだったが、実は、話しかけても大丈夫だったのかもしれないのを、あとで知った。

 

作品を見ていて、生きている時間は、どう使ってもいいんだ、というような気持ちにもなれ、そして、こんなにしゃべっていることに感動もし、ノドへの負担もあるのでは、と思い、妙な行為だけど、持って行ったペットボトルの飲み物を「開けてませんから」と言って、受け付けの人に渡した。それから、投げ銭については、最初、小銭にしようと思ったが見栄を張って、1000円を入れた。

 気持ちよく、帰れた。

 帰ってくる途中に、木村太陽を思い出し、展覧会場には連絡先も明記してあったので、伝えたい気持ちが優って、それが自己満足の気持ちの悪い行為と思いながらも、作家あてにメールを送った。

 

『関 優花 様

 

突然のメールですみません。

今日(13日)、rusu「ナオナカムラ」の個展にお伺いした者です。

何の関係者でもなく、ただ、好きでアートを見ている人間ですが、すごく魅力的な作品で、見てよかったと思ったのでご迷惑とは思うのですが、メールを送ることにしました。

 

関さんの作品を見て、生きている意味、みたいなものを考えました。

 

ただ過ぎて行く1日でも、密度を上げて行くことが出来る、という事を見せてもらっているようにも、思いました。

 

私は個人的には、木村太陽、という人の作品も好きなのですが、その人が、「考えさせてくれるイタズラ」だとしたら、

 関さんの作品は、「修行の可視化」なのかな、とも思いましたが、目の前で、話し続けている姿には、悲壮感が少なそうに見えたので、

生き続けることそのものを見せてくれている

という事かも、と思いました。

 

「うまく話せなくなる」も、私が伺ったのは、午後6時くらいなので、

もう長い時間、話しているはずなのに、

目に見えた疲れとか、嫌になった感じとかをあまり感じず、

言葉を雑に扱うわけでもなく、

ちゃんと伝えようとしている姿が、不思議で、新鮮に思いました。

 

これが、「努力を晒す行為や無償の献身が得意」ということかもしれない、と思い、すごいと感じました。

(大げさかもしれないが、こういうことが得意な人というのは、

 私が知っているのは、マザーテレサみたいなタイプだと思うのですが)

 

 いろいろと大変な事もあったかと思うのですが、個展を開催していただき、

ありがとうございました。

 勝手ながら、今後の作品にも、期待しております。

 

長いメールになり、大変、失礼しました。

すみません。』

 

 こんな一方的なメールにも、作者本人から、会期終了後に返信が来た。それだけで、とてもありがたかった。これまでとは違うパフォーマンスを見せてくれる、という期待は、本当にあったので、また作品を見たいと思っている。

 

 

 

(2018年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

bijutsutecho.com