アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

岡田裕子 展「ダブル・フューチャー」。2019.7.10~8.10。ミヅマアートギャラリー。

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岡田裕子 展「ダブル・フューチャー」。2019.7.10~8.10。ミヅマアートギャラリー

 

2019年7月20日。

 ミヅマアートギャラリーは、市ヶ谷から降りて、歩く。まっすぐに進んで、急に旗があって、二階にあがると、重くて開けにくそうで、人を寄せつけない、印象まである。その前は中目黒で、さらに前は表参道にあった。

 

 今のギャラリーはドアを開けて入ると、中は広くて、天井も高い。何かしらのオブジェみたいなものが、高そうな布をひいた上に飾られている。それは、作家の内臓を3Dスキャンをして、それを立体化し、金ぱくをほどこした作品だと、リーフレットを読んで知った。それも脳血管だった。複雑で有機的で、新しい宝飾品として、本当にありそうなものにも見えた。

 

 それは、今回の2つの作品のうち、新作の「エンゲージド・ボディ」を構成する立体作品だった。そうした装飾性の高い、ジュエリーというもののかもしだす、一種独特の、はかなげを装ったとても強さのある感じが共通する作品が並んでいて、壁の一部には映像が流れている。

 

 それは、今回の作品、未来の架空番組としての映像が流れている。未来では、再生医療が進み、ヒトの細胞が、育つことによって、あらゆる人に様々な臓器を提供することができる。それは、提供する側も、受ける側も誰か分からない、という状況にするのが原則でもあるのだけど、その名乗り合えない状況で、細胞を提供された側が、御礼として、再生した内臓をジュエリーに仕立てて贈る、という習慣が根づいている、という前提の世界になっている。

 

 岡田の作品では、そうなった場合の、細かい具体的な状況まで盛り込むことによって、リアリティと、そこにまつわる問題点、それは未来の問題のようであって、今芽生えている問題点までを気づかせる、という視点まで気づかせてくれる。たとえば、その未来の架空の番組内では、エピソードとして、1人のホームレスが、人のためになりたい、ということで、「体をきれいにして」病院にあらわれ、細胞を提供した。その細胞はとても強くて、だから、スーパードナーとして有名になり、内臓のジュエリーがたくさん送られた、という話がされていて、それは美談仕立てでもあるのだけど、差別心や、昔、日本国内でも、血液を売る習慣があったり、今でも世界のどこかで行われてるという、内臓が売買されていることと、つながるような恐さも感じさせる。

 

 そうなったら、細胞の売買が行われ、そうしたホームレスといった人々の中に、スーバードナーがいることが秘かに調査され、ピックアップされ、ひどいめにあう可能性もあることまでほのめかされていて、そういうことまで想像力が届く凄みを、感じさせた。その映像の最後に、岡田本人と、医療関係者の両方が、どちらも機械化されていた、という話になっているのだけど、機械化と、再生医療との組み合わせみたいなことなのかとも思うが、それは、映像的なインパクトは十分にあった。

 

 もう一つの作品は「俺の生んだ子」で、これは、17年前に製作されたもので、それを再編集したものだった。今見ても、男性が妊娠できる、といったことが可能になった世界を描いているのだけど、そこにリアリティがあるのは、その中で、子供を産むことに関する、イレギュラーなことが少しでもあった場合に、法律がいろいろな制限として立ちふさがることまで描かれている。そうした今も解決されていない課題みたいなものは、以前、見たはずなのに、ほとんど覚えていなかったのは、現実の世界でもあるはずの、立ち塞がるような出来事に対して、昔のほうが、自分自身は鈍感だったのだと改めて知るが、今でも、妊娠・出産に関しては、子供もいないし、無知なことが多いのだろうと思う。

 

 どちらの作品の映像にも、医療の専門家として出演している女性の雰囲気がずいぶんと変わって、それが時間の経過として、目の前に見せられている気もした。

 

(2019年の時の記録です。多少の加筆・修正はしています)。

 

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