2011年8月26日。
近所に、まさか出来るとは思わず、モスバーガーでも出来ればいいね、とマクドナルドがなくなったあとに妻と話していたら、そういう願いがかなったせいか、一足飛びにギャラリーが出来て、妻はそこの常連のようになっていて、それはつぶしたくない、という気持ちがあるせいらしいが、そこへよく行っていて、まだ若い30代のオーナーの女性と仲良くなり、そこでもらったチケットで現代美術館へ行く事にしていたが、今週末で終わりだったから、ぎりぎりの今日にやっと出掛けられたのは、義母の介護をかわるために、義理の姉が来てくれたからだった。
雨が降るよ、と言われていたけど、インターネットの天気予報ではそれほどでもないみたいだったし、と思っていたが、行きの東京駅のバスの中から、もう雲行きが怪しいというよりは、恐いくらいまっくろな雲が向こうに見えていた。隣に座った女性二人は、ゆずファンらしく、ゆうじんとアルファベットで描いてあるおそらくは手作りのチケット入れを持っていて、過去のチケットがたくさん入っているみたいで、名和晃平は、ゆずのアルバムのジャケットにも関わったことがあったから、その関連でゆずのファンも来るんだと思った。
思った以上に、現代美術館前のバス停で人が降り、思った以上に美術館の中にも人がいる。
プリズムを使った作品は、以前見た作品よりも、中にあるものが、どんな風に位置しているのかが分かりにくくなっていて、そこにあるのに、どこにあるか分からない、どうやってあるのか分からない作品になっていた。
次の部屋は、動物のはくせいを、大きいガラスのビー玉でうめつくした作品があって、それは視覚がちょっと混乱させられたり、中には動物のはくせいがある。
あとは、発泡スチロールを使ったと思われるけど、そういう軽さや安っぽさを感じさせない、巨大な彫刻や、あぶくや、そうした作品が並んでいて、どれも頭のよさ、とスキのなさ、を感じさせて、どれもよく出来ていて、大量生産された、とてもいいもの、というようにも見えた。
一番、大きいスペースには、表面が球体っぽくなった立体が並べられていて、その解説を読んでも、実はよく分からなかったが、壁面に名和晃平本人がドローイングを描いている姿があった。それは自分の気持ちや意志をなるべく入れないように、何かしらの規則に体を従わせて描いているように見えて、そのそっとしていて、力を抑制しているような仕草が、とても興味深く、独特だった。
まるで能楽のように、まるで情緒を排除しようとする坂本龍一のピアノ(テレビなどで見ただけだが)のように、自分を機械にさせたいような動きは、この前、同じ美術館の公開制作で見た、他の作家の、気持ちと直感を信じている動きとはまったく違っていたが、でも、その動きには蓄積が確かに感じられたから、長年、取り組んでいるのだろう、と思えて、もしかしたら、その本人の独特の気配を見られたことが、今日、一番、面白かったかもしれない、などと思った。
ただ、1回目は、説明のパネルすらなく、1回目が終る頃に大きめのリーフレットがあるが、それを見て2回は見たけれど、それが説明になっているかといえば、それを読んでも、その理論みたいなものと作品が、どうも一致しない感じはした。
それでも、完成度は高く、オリジナリティーはあって、何しろ、安定感があった。あちこちで幅広く活躍するのも、納得できる気持ちになった。
(2011年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。