2012年11月1日。
ぞうきんが美術館に展示されるなんて、という否定的な見方と、本当にいいと思っているかどうか分からないけど、そういう違うやりかたに、過剰に賛成するような見方の両方があって、結局、その骨董をテーマにした展覧会を知らなかったし、見なかったのが、松濤の美術館であった、と知ったのは、それが終ってから少したってからだった。
そして、「古道具・坂田」という店が目白にあって、ということを知ったのも、ゲイサイ大学で、その店主の話を聞いてからで、自分のやり方を貫いて、そして世間のモノの見方まで変えるなんてすごい、という気持ちと、その講座の時に持ってきた店の商品が、確かにゴミのようでもあるけど、なにか、ただごとでない気配はあって、ただ、それは本人の話を聞いたあとだから、そう見えるのかな、と思いながらも、その店のことはずっと気にはなっていた。だけど、行くまではいかなかったのは、やっぱり少しこわいのと、行くからには、買う意志を持っていかないと失礼ではないだろうか。でも、金銭的な余裕もないし、家に古道具を置いたら、築50年くらいの木造で、しかも部屋の中はびっくりするほどゴチャゴチャしているし、本当にゴミとしてうもれてしまう、という気持ちになったからだった。結局は、怖気付いていたのだと思う。
今回、松濤美術館で、骨董品という大きなくくりではなく、その「古道具・坂田」が完全に主役の展覧会をやると知ったのは、どこで知ったのか憶えていないが、おお、と思って、行きたいと思ったのは憶えている。いろいろとあったのだけど、これは見ておかないとあとで後悔すると思い、何しろ行こうと決めた。
久しぶりの渋谷。松濤美術館。地下1階からの展示。細く、長く、でも美しいと思ってしまうような見た事がない刃物。うなぎをとるための道具が壁にかかっていた。古いじゅうたんのような布。上にあるマリアの像。何か分からないと言ってもいいものが並んでいる。
つぎはぎのような布があったり、手書きの聖書だったり、人がほとんどいない展示室で妻と見ていたら、そこに時間があるような気がした。過去の時間がそこにあって、しかも、仕事道具で、修理の繰り返しが見えるようなものだと、そこに人の手間ひまとか思いとか、そんなものまで、そこにたたずんでいて、流れていたいろいろなものが、まだある、みたいな気持ちにもなった。
それぞれの器とか、モノとか、やっぱりフォルムが美しかったり、妻はマリア像を愛しいと言ってみたりしていた。小山登美夫ギャラリーの小山氏が来ていた。私たちと同じように、一点一点、番号しかふっていない作品が、果たして何なのか?を確かめながら、まっすぐに見ていた。時々いる、ちょっと冷めた視線で、素早く展覧会を見ているような専門家ではなく、そのことに感心もした。2階に上がって、そこには腐りかけた紙みたいなものが積んであって、質屋の何か?だったりもした。砂糖なんとかの布も、つぎはぎがあって、そこに時間と手間と人の何かが出ていた。なんだかすごかった。
もう1度、地下1階へ行ったら、人がたくさんいた。妻はさっきと違っている。と言った。今は生きている人が多いから、その時間に、さっき、人がいない時には感じられた過去の時間とかがかき消されているように思えた。
とても不思議な体験でもあった。
(2012年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。