アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「内藤礼 明るい地上には あなたの姿が見える」。2018.7.28~10.8。水戸芸術館現代美術ギャラリー。

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内藤礼 明るい地上には あなたの姿が見える」。2018.7.28~10.8。

水戸芸術館現代美術ギャラリー。

2018年10月3日。

 

 豊島美術館を見て、ああすごかった、という印象があり、それまでの作品の集大成のようにも思えたし、ある意味では意地悪だったり、大胆だったり、とにかくぶれない、という言い方にもなるのだろうけど、見えるか見えないか、感じられるか感じられないか、気がつくか気がつかないか。それは鑑賞者がいろいろな意味で力を発揮しないと、意味がない作品だったり空間だったりするのは間違いなくて、そうなると、たとえば、今はなくなってしまった鎌倉の美術館での展覧会は、普段は絵画や作品を飾るガラスのケースの中をからっぽにし、その中に観客が入って、そこでものすごく繊細というか、見えるか見えないかの作品が並べてあり、それは本当に感心もしたし、よく、ここまでのものを作るということと、そのことを公共の美術館で通したこともすごいと思った。

 

 それは海外のビエンナーレに出展していたり、といった権威も大きいのかもしれないが、それでも、毎回、なんだか感心する作品が多い。でも、それは自分だけが気がつく、といった妙な虚栄心も含めて刺激されている部分もあるのだけど、それ以上に、いつも身構えるというか、緊張感があって、鑑賞者が受け身だと、何も見えないまま、何も感じないまま、見終わってしまう作品ばかりで、その上、そのことに関して作者本人が丁寧な解説とか説明とかをしているのかもしれないけれど、それはあまり知らなくて、やっぱりそれはしていないのではないか、という感じもする。

 

 だから、新しい展覧会をすると、なんとなく、試練を与えられているというか、それはクリアしないとダメなのではないか、といった気持ちになり、豊島美術館に幸いにも妻と一緒に旅行で行けたあたりから、それならば、今後もなるべく見てみたい、という気持ちになっていて、前回は目黒の庭園美術館で、内藤礼のファンにも初めてお会い出来たし、今回も、たぶん熱心な方々が来るのではないか、と思って、9月にいろいろと一段落したので、早起きをして、お金をかけて、妻とも相談して、二人で行くことは家を空けることになり、義母の介護ができないので、自分だけが行くことになった。申し訳ないのだけど、ありがたい。

 

 東京駅の高速バス乗り場は、変化していた。いつ以来か忘れたが、以前は、もっと場末感の漂う、隅っこの施設、という印象だったのが、ターミナルの施設、という近代的な雰囲気になっていて、スタッフの方に聞いて、予定よりも1台早く乗れた。午後12時半スタート。ちょっとわくわくもする。眠い感じもする。音楽を聞きながら、車内で本も読む。ハンナアーレントが、すごく難しかったのだけど、バスで他にやることもない環境がそうさせるのか、とも思ったが、ほぼ予定通りにバス停に着く。

 

 水戸芸術館まで、すこし迷って、でも、芸術館のタワーを見つけて、ものすごい異物感があって、すごいし、すぐ分かる。着いて、家に電話しようと思ってウロウロしたが、もう以前はあった公衆電話は撤去されていて、微妙に焦ったが、もう何もトラブルはないと信じて、鑑賞することにする。写真撮影は禁止。荷物も預けて、小さいビニールのバッグに眼鏡とウインドブレーカーだけを入れる。トイレに行って、汗をかいたので、Tシャツを着替えた。

 

 今回は、自然光しか使っていない。だから、9月から、午後6時から午後5時に終わってしまう、という設定。

 最初の部屋に、小さな透明な球体がぶらさがっている。いくつもあって、よく見ると見えてくる感じ。3度目に見た時に、その中に二つだけ金属の玉があることに気づく。それから、庭園美術館で見た「ひと」や、白い風船や、糸や、鏡や、何度か見たことのある要素で空間が作られているが、何しろひっそりとして、一人で来ている人が多いようで、話し声もしない。

 

 3メートルくらいあるハシ入れくらいの細長い金属の水が入っている作品は、初めてみるパターンで、それに息を吹きかけられる、ということで、小さな波を起こし、その様子をちょうど目線を同じにしてみると、薄い波が向こうへ走っていくのが見えて、キレイに感じる。考えたら、微妙に唾液が入っていると思うけど。

 

 3つ目の部屋を入る時に、まっすぐまんなかか、はしっこを壁際か、どちらかに歩いてもらえますか、とスタッフに言われる。高い天井で、トップライトのそばから、糸がぶらさがっている。床につくか、つかないか。よく見ても、幽霊のように、足元が見えにくいが、発見すると、うれしい。

 

 白い絵。様々な色が使ってあるので、角度によって、光によって、色味が変わる。それは、でも注意深く見ていないと、分からない。2度目に見た時に、スタッフが絵の上を空気によって、ゴミをとっている。すごく繊細な作品なので、ほこりがあると、それが作品ではないか、と鑑賞のさまたげになりますので、それに、気温が下がって、お客様の衣服から毛糸などが出やすくなりますから、と静かな声で説明してくれて、この期間中は、独特の緊張感がずっとあって、それも含めて、作品なのだろうと感心する。

 

 その展示室から、最初の展示室の方へ戻る細長い廊下のような場所。そこは照明がないと、午後3時過ぎでも、もう薄暗い。だけど、長いベンチもあるし、時々、座って、そこにある作品を見る。小さい鏡が、たとえば部屋の5メートル向こうと向いあっていて、ひそかに鏡を映し合っていたりしないだろうか、と警戒心に近い気持ちで見るが、はっきりとは分からない。雑誌がくしゃくしゃになったものも、見たが、今回もある。イスも白く塗ってあり、作品としてリストに載っている。そこに座ると、どこに座っても、違うイスに座った人と視線が正面から向き合わないようになっているようだ。

 

 そして、次の展示室は、もう薄暗い。円柱形の紙がぶらさがっているが、それは、小さい穴が無数にあいていて、だから、光のある方を見ると、その形の向こうに、その向こうの景色が見える。天井から、ビーズが丸く、飾るようにある作品は、最初は分からなくて、スタッフの方に、あれは見られましたか?と言われ、誘導され、すると、別の観客の女性に、ここから見えやすいですよ、と教えてもらい、その作品がよけいに美しく感じる。薄い紙をもらってくる。とても小さい字。よく読めない。外に毛糸を使った作品がある。

 

 一度、コーヒーを飲んで、再入場して、2回見た。

 時間が変わると、光が変わったみたいで、見え方が少し変わる。ような気がしたのかもしれない。ただ、こうして、鑑賞者にいろいろな要求を暗黙のうちに強いる感じはすごい。午後5時近くまでいたけど、特に暗くなってきた部屋の中のイスに座り続けている人たち自体に凄みを感じる。この中で時間を過ごすのは、意味があるとは思う。大げさでなく、感覚をとぎすます、ということが出来る空間だとも思った。

 

 ジョンケージの演奏しない作品があって、それは、周囲の音を改めて感じてほしい、みたいな思想もあるらしいが、内藤礼の作品もそれと似ていて、鑑賞者の力を引き出す、みたいなことで完成する、みたいなことなのかもしれないと、改めて思えたが、行けてよかった。

 何かの区切りになる気がした。

 

 

 

(2018年の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

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