アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「アンディ・ウォーホル展」。永遠の15分。2014.2.1~5.6。六本木・森美術館。

アンディ・ウォーホル展」。永遠の15分。2014.2.1~5.6。六本木・森美術館

2014年4月24日。

 デュシャン以来の、現代美術を語るには欠かせない存在の一人であり、見に行くと、それほどの味わいがあるわけではないし、本当にコンセプチャルな人だから、図版などで見て、意味を考えたりしても面白さは変わらないのかも、と思いながらも、この時期にあえて、また大規模な個展をやるので、やっぱり見たいと思う。

 

 前回見て、一番印象に残っていたのが96年の東京都現代美術館での個展で、あの時に凄さを初めて分かった気もしたので、ただ、それはちょうどバブルが終って様々な変化が表面化し、下り坂がはっきりしてきた時に見て、やっと豊かさのあとだから初めて分かるものではないか、というような事もあったし、これだけ、そのままを提出するという現代美術のど真ん中みたいな事が、まだできたんだ、ということと、これをやられてしまっては、その後のアーティストは本当に大変だよな、みたいなことをばく然と思ったのは、覚えている。

 

それは、今21世紀に、そして、あの頃と違って自分はまだ無職で、介護だけをしているような生活の中で、どう見えるか、ということも興味もあり、現代美術としてのウォーホル(確か以前は、ウォーホール、表記だったように思えるが)を改めて見たいとも思った。

 

 平日なのに混んでいた。おしゃれな人も多い。作品は、いつも通りの安定感というよりも、どこかで見ていることが多く、いつも触れているので、勝手に新鮮さがなくなっているけれど、これを1960年代の最初に発表した時は、色の派手さは(これはサイケデリックなのかもしれないが)衝撃だったろうし、何しろ、日本でいえば、おそらくカゴメの缶づめをそのまま作品です、と言ったのだから、他のアーティストにとっては、やられた、というような感じはあったのだと思う。レディメイドの更新版なのだから。

 

 時代をへるに従って、作風は変わる、というよりは行き詰まった印象が強くなり、キャンベルスープの80年代の後半バージョンは、芸術風の、一回は完全に捨てたはずの、筆あとを感じさせるタッチを入れたり、ロールシャッハを使ってみたり、いろいろな事をしているけれど、初期の作品には及ばない。

 

 それよりも、今回初めて見たのが実験的な映画や映像で、その印象が、今の21世紀にもダイレクトにつながっているように思えた。ずっとエンパイヤステートビルディングを撮影した映像は、フィルムが古くなり傷があったりして、味が出てしまっているので、リメークしたらどうなるんだろう、みたいな事を思いながらも、ダリの顔もあったりして、すごく無理しているのが画面を通しても伝わってくるように感じたり、映像の方が生々しく残ることを再確認した。

 

 ウォーホルがプロデュースしたらしい画面には、私を見て、という承認欲求のかたまりのような若い男性や女性が映っていて、それは自分の若い頃と似たところもあるのだろうけど、ただひたすら、そればかりであさましさだけがくっきりと残っている。ウォーホルだって、そういう承認欲求の強さの化け物みたいなところがあったはずなのに、というか、そのせいなのか、そうした事が生々しく記録されている。今の時代と完全に重なる。インターネットがあれば、ウォーホルは使っていただろうし、逆にいえば、インターネットを完全に生かしたアート作品はまだ出ていないのだろうけど、それは初音ミクの映像が、みんなの匿名の意志で出来上がって行く、みたいなものが、すでに「作品」なのかもしれない、などというところまでは思ったけど、それが正解かどうかも分からない。

 

 バスキアとの共作は、まるでウォーホルを踏みにじるような描き方をしているが、問題は、一緒に作ったということであり、そういう意味では、この頃勢いがあったと言われるバスキアのエネルギーを踏み台にしているのは、ウォーホルだろう、と思わせるものもある。

 

 そして、ビジネスアート、といわれる肖像画が並ぶ。坂本龍一には失礼かもしれないが、すごくかっこつけているポーズが作品になっていて、ただ、それは坂本だけでなく、他の人達も一様にかっこつけてしまっているのだから、それはアートの力というか、アートだから、というような地位がこの頃にはあったのかも、というような気持ちにもなったが、並んでいる中では一人だけ、マイケルジャクソンだけが、いつものように笑っている。そういう宣材写真からとったせいかもしれないが、並ぶと違和感があるが、ジェフ・クーンズもマイケルジャクソンを作品のモチーフにしていたのも、あとで思い出す。

 

 ファクトリーの再現というのは、どうせだったらアルミ箔をはればいいのに、と思うくらい写真で再現したのはしょぼいイメージもあったが、ただ照明の暗さや、映像を見ても、すごく退屈だったりする空間だったのだろうな、ということが初めて少し伝わって来たように思えた。それでも、何かあると思ってくる人達の何かしらのエネルギーとか、そこに生まれるもので、万が一くらいの確率で影響があったのかもしれないが、ただ、年表を見ると、そこに集まって来た人間で映画を作ったことくらいで、スープ缶も、映像もファクトリーよりも前にできてしまっているから、思ったよりも効果がなかったのかしれないなどとも思うし、その退屈さみたいなものを初めて少しでも感じられたのは、意外でもあった。

 

 ずいぶんとたくさん見た気がした。疲労感もあったが、高層である事と人の疲労感は関係がないだろうか、みたいな事も思ったりもした。

 

 

 

 

amzn.to

 

 

amzn.to