アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「アンリ・サラ」展。2011.10.14~11.10。カイカイキキギャラリー。

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「アンリ・サラ」展。2011.10.14~11.10。カイカイキキギャラリー。

 

2011年11月10日。

 毎週、土曜日の深夜午前3時からやっている「FM芸術道場」で村上隆が、天才といっていたアーティストが今、そのカイカイキキギャラリーで展覧会をやっていると知った。

 

 映像を使うアーティストで、その設定のためにギャラリーのスタッフがあまりにもきつくて嫌になって、というところを、村上隆が、おまえら、天才を見た事あるか?ないです、という答えに、彼は天才だから、その指示がきつくてもちゃんとやった方がいい、というような事を言い、そして出来た作品は、素晴らしいもので、という言い方をしていて、間接的に聞いた私もテンションと、そしてハードルが上がった。

 

 久しぶりに有栖川記念公園のとなりの坂道を上り、途中から妻が公園の中と通りたそうにしていたので、樹木の下を歩き、この木は百年以上、こうしてここにあるかも、と思ったら、うらやましくなった。私は、百年生きるとはとても難しいし、やっぱり動けて考えられて元気で長生きしたい、というのが目標だから、変らなく見える樹木が、変な話、うらやましくなったのだった。

 

 ギャラリーは、いつもと違い、壁がきちんとしていて、本当に美術館の展示のようだった。入り口付近から、もう暗かった。ガラスにあるオルゴールは、メンテナンスのために、さわることができない。ドラムも置いてあるけど、作品なので、さわれません、と注意をうけ、オルゴールが動かせないのは、がっかりした。

 

 中に入ると、映像から流れる音楽は、事前の情報で知っていたクラッシュの曲だった。いろいろな人が、紙に穴があいたような譜面(?)を使って空気のオルガンのようなもので、次々と、そのクラッシュの曲の一部を演奏していく映像が流れる。譜面は一部だから、曲の一部で、そこで演奏する人達のふるまいが、素人なのか、演技のプロなのか、分からないくらい微妙な感じで、でも、それを見ていると、ギャラリーの畳のある方から、同じ曲が流れて来て、向こうの空間にも同時に映像作品が流れているのを知る。

 

 どちらの作品も見えるポイントがあって、音の響き合いとか、映像で、その街にいる、とまではいかなくても、感覚が広いところにまで届くような気持ちになってくる。そして、曲が少し盛上がってきたところで、ドラムが控えめに演奏を始め、それにはっきりと気がついたのは、そのしばらく後だった。同じ繰り返しに過ぎないような、そのクラッシュの曲が気持ちよくなってきて、その映像が自然なのか、作りなのか、よく分からない感じで、日常的で、非日常的で、どちらか分からない感じで、終る。

 

 すると、その向かい合わせになった壁側のスクリーンに映像がうつる。それは、窓ガラスの向こうに、なんだか分からないように見えている人の頭と、トランペットかなにかの演奏の音。その映像が延々と続き、その窓に微妙に近づいていくと、その窓の外に映っているのが人の頭だと分かり、その人が、どうやら、窓の外の壁面にへばりつくようにして、吹いているのだろう、と分かる。

 

 途中で、その人のアップもあったり、自然だか不自然だか分からない。退屈そうな場面なのに、不思議と見てしまうのは、その演奏が変にリアルだったり、もしかしたら、これから飛び降りるとして、その最後に演奏するとして、みたいな演出がされているのだろうか。そうでなくても、このビルの5階はある場所の壁面の外で演奏をしたら、普通でないものが感じられるのかもしれない、などと思っているうちに、最後には、その窓から遠ざかって行ったが、飛び降りるというのではなく、そのままゆるやかに空を飛びつつ、演奏も続ける、という終り方だったが、すごく自然だった。

 

 と思ったら、また、向かい側の壁の映像と、畳の部屋の映像が同時に始まり、今度は、畳の部屋に座って見ていたら、オルゴールでクラッシュの曲を弾く男と、さっきの映像の中でのオルガンみたいな音の同じ曲を演奏するカップルが同じ街で、その曲を聞き合っているのに、結局、会う事もない、という映像だった。

 

 なんだろう。今、書いていても、クラッシュの曲が流れたり、映像が場面場面で思い出す、というよりも、その雰囲気で、そのオルゴールを弾く男も、カップルも演技の素人かプロか分からない感じで、アートのこうした映像にある作り込み感が少ないけど、退屈もしないで、どこか静かな気持ちにもなれて、もう少し他の作品も見たい、と思えるような印象は確かにあった。

 

 考えたら、こういう作品って、どうやって思って、どうして、こういう形にしようと思ったのか、よくわからないけど、でも、出来たのを見ていると、不自然さが少ない、という分かりにくいすごさがあるのだと思う。

 

 あとになって、FM芸術道場を聞いた。

 アンリ・サラの作品について、村上隆は元々はビデオアートが好きでなく、思わせぶりなのに意味がない、というような事を思っていたが、このアンリ・サラの作品を見て、映像として出来ているから、退屈しないし、それでいて、なにかがずれていて、違う世界に行かせてくれるすごさ、と言う話をした。

 

 いつも見つけてくるのは、どこかすき間みたいなところを突進していって、というようなすごさだと言う。そして、サックスをふいている作品も、急に高いところへこのサックスプレーヤーを連れていって、恐怖にうちかつために、吹いていた。そういうリアルさがあるんだ、と改めてすごいと思った。

 そして、オルガンを演奏している人も、その後でガンで死んだ、ということもあったから、追い込むタイプなのだろう、という話にもなった。それから、初期の作品は、自分が見つけた、自分の母親が、アルバニア共産主義の頃に共産主義プロパガンダを話していて、映像だけなので、それを唇を読んで、字幕をつけて、それを母親に急に見せて、質問というより、詰問している姿を全部映像としているということを聞き、それはすごいと思った。必然性の高い映像作品なんだ、何かがとてもいつもリアルなんだ。でも、それはやろうと思って出来るものではない、と確かに思う。

 

 

(2011年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

gallery-kaikaikiki.com

 

「アンリ・サラ」(美術手帖

https://bijutsutecho.com/artists/269

 

artbook-eureka.com