2017年7月29日。
「19歳で英国ロイヤル・バレエ団の史上最年少男性プリンシパルとなったセルゲイ・ポルーニンは、その2年後、人気でピークで電撃退団(中略)途方もない才能に恵まれ、スターになるべく生まれた彼は、その運命を受け入れなかったのだ」(チラシより)
その「天才」を追ったドキュメンタリー。
若い、というよりも、幼いときから、周囲から見たら異質なほど優れたダンサーでもあって、跳躍とかは、画面で、それもバレエに無知な自分が見ても、明らかにすごいのは分かる。
ウクライナで生まれ、貧しそうな環境で両親もバレエの才能とかとは無縁そうだったのに、その国の首都に行っても、まだ足りず、ロンドンまで行けるような才能で、だけど、それを支えるにはお金がかかって、家族が違う国にいって稼ぐしかないような環境になってしまう。
今は幼い頃の映像が残っていて、それを見ていると、このセルゲイのターンの隣で、必死に回ろうとしているのに、途中であきらめる姿もうつっていて、もうそれは、いくらトレーニングをしても絶対に追いつけない存在がそこにいて、それは、本人にとっては才能であったのだけど、その先にロンドンのバレエ団で、史上最年少の19歳でトップになり、ヌレエフという歴史上に残るようなダンサーの再来とまでいわれたが、2年でやめてしまったら、それは才能を持て余している、などとも言われるだろうけど、家族が一緒になるために必死だったのに、バラバラに暮らしているうちに、両親は離婚にまで至ってしまい、そういうことがあったら、そのモチベーションを失ってもおかしくないと思った。
観て、少し時間がたって、その貧乏といっていい環境にいて、そこに教養みたいなものがないと、それだけで自己コントロールという力に影響を与えて、それで急変する環境についていけなかったりしたのかもしれないと思うと、それはやっぱり残酷なものを感じる。それでも、映像として、人間の姿として、見た目も、両親とは異質な、スマートというか、エッジがきいた立ち姿でもあったりして、それでも、ダンスを捨てなかったのは、観ていて、よかったと思えたのは、才能を捨てるみたいなことにならなかったから、ということでもあったけど、その再注目のきっかけになったMVを撮影したラシャペルという名前にどこかで聞いたような、と思ったら、20年くらい前に、渋谷のパルコかどこかで見た写真の個展を開いた写真家だった。ものすごくお金をかけた、盛りだくさんの画面を作り上げる人で、その写真家は、ウォーホルに見出された、という人だったけど、まだ一線で活躍していたんだ、というのと、このダンサーに注目するあたりが、まだ現役なんだ、という感じもした。
そして、家に帰り、リーフレットに並べられた各界の人々のコメントが載っていたが、その中で、熊川哲也の言葉に異質感があって、この人の才能のコントロールの仕方のすごさを、改めて思ったりもした。この人もロンドンの、その同じ劇団にいた人間としてのコメントでもあるのだろうし、その観ていたものも近いから言えて、その上で現時点では、自分が先、という言い方だったから。
「バレエダンサーは、その華やかなイメージに反し孤高の世界だ。この映画では、バレエを使命とし生を受けた者は、その人並み外れた才能が、幸福だけでなく、人生の呪縛になり得る事実を見事に描いている。再生の一歩を歩み始めたセルゲイには自らの才能を掌握する術をこれから見つけてほしい。舞踏という崇高な挑戦の少しばかり先を歩む者として、いくばくかのシンパシーとおおきな激励をもって彼の今後の活躍を見守りたい」。
それは、同じバレエダンサーでも、熊川やセルゲイの場所までには、失礼かもしれないが、行っていない(でもそれが不幸なわけではなく、その人の方が、幸福なのかもしれない、と思わせる気配もあるが)人のコメントとは違う、ということも含めて、恐い世界でもあるけど、その質の差は、残酷なほどハッキリとあるのだと、映画を見たあとも含めて、分からせてくれた。