アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

書籍 『映画を撮りながら考えたこと』 是枝裕和  

 是枝裕和。この人の凄さ、というのは分かりにくい。

 というよりは、自分自身の見方では捉えられないほど、存在が大きいのかもしれない、と思うようになったのだけど、この本を読んで、ここに至るまでの過程が凄いことを、少しだけ分かったような気がした。

 ここには「映像のレシピ」が惜しみなくある。だけど、誰もが、同じように仕上げられるわけでもないことも、思っていた。

 

 

『映画を撮りながら考えたこと』 是枝裕和

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 特に若い頃、20代前半は、華々しいエピソードが少ない。

 

 20代で、制作会社で企画がボツになり、干されたような状態になっていて、そこから、自分の企画で初めてのドキュメンタリーを制作し始める。だが、その取材も撮影も進んでいたところで、根本的にその企画を考え直さないといけないような出来事が起きる。

 

 そこで、番組の構成自体を考え直すことにして、さらに取材を進めた。最も重要な取材相手は、家族を自殺で失ってしまった人であったが、その相手と緊張感を保ちながらも、誠実に関係を作っていく、というオーソドックスでありながら手間のかかる作業を丁寧に進めた様子が伝わってくるが、是枝氏の表現の中に、私はこれだけ頑張った、こういう手法でうまく取材が進んだ、といった自慢がないので、表面的な「凄さ」は、やはり分かりにくい。

 

 ただ、この時から、例えばドキュメンタリーを制作しているときに、「ドキュメンタリーとは何か?どんな意味があるのか?」といったことを考えながら仕事をしているように思える。それ自体が、今の是枝氏につながる要素でもあるのだけど、そんな大きなテーマを持っている若い人間が、まだ力がない頃に、どんな風に扱われるのかは、想像もできて、だから、そこまでうまく行っていなかったのかもしれないとも思うが、それを貫いたことが、結

果としてはカンヌまでつながっているように思う。だけど、それは、読む側の成功者バイアスもあるかもしれない。

 

 それは、「ドキュメンタリー論」にも思える。

 

「たまたま私がカメラを向ける側であなたが向けられる側だけど、そこで成立する作品または番組において、豊かな公共的な場、公共的な時間というものを互いの努力によって創出していくこと。それが放送である」という考え方がもし成り立つのであれば、取材者と被取材者が対立せずに同じ哲学のもとに番組を共有することができます。理想論かもしれませんが、僕がこの番組を成り立たせる根拠はそこにありました。(もちろん、権力は別です。警察や政治家など公的な立場にいる人を相手にするときは、隠し撮りや電話の盗聴も必要であればするべきだと思います。それで訴えられるのであれば訴えられればいいし、裁判をして負けるのであれば負けてもいい。それでも撮らなくてはいけないものは撮るべきだという覚悟が、そのようなドキュメンタリーをつくるときには必要です)

 

 この番組は、ドキュメンタリーでありながら反響が大きく、2回ほど再放送され、のちにさらに取材を続けて1冊の本になる。
 

『しかし……ある福祉高級官僚 死への軌跡』 是枝裕和

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「出会う力」と、「学ぶ力」

 

 その後も、今となれば、才能のある監督ということになるのだろうけど、読者の印象としては、一つ一つの仕事をしていくときに、その現場で起こったことに「学ぶ力」がとても強く、だから、どんな仕事でも結果として、1作ごとに成長しているのではないか、と思わせる。

 

 例えば、やはりドキュメンタリーでのこと。

 被写体のこちらへの「働きかけ」を意識的に番組のなかに取り込んだのですが、全体を通してその「働きかけ」の時間がリアルというか、取材者と被取材者の間にあった透明な膜を破かれたように感じられました。

 

こうした経験の積み重ねで、さらに育っていく確信。

僕は「やらせ」とは自己のイメージ(フィクション)を現実に優先させてしまう閉じた態度から生まれるものだと考えています。その意味では、真面目な社会告発型ドキュメンタリーだろうが、撮る前からあり得べき理想が確固としてつくり手のなかに存在し、そこへ精神が閉じてしまえば、目指す志のいかんを問わず「やらせ」だと思います。

 

 映画も、本人にとっては、最初から順風満帆だったわけではないが、それでも、最初から、国際的な場所で評価されたこともあり、撮り続けることができ、例えば「空気人形」での主演のぺ・ドゥナという優れた俳優に引っ張られる経験もあった。

 

ひとりずば抜けたプロフェッショナルがいると、相乗効果で周りも自分のプロフェッショナルな部分を引出させる、というのを実感した現場でした。もちろん僕自身もそのひとりです。

 

 この人の「出会う力」と「学ぶ力」は一見しても分かりにくいが、突出しているように思える。そして、当初から国際舞台に関わることによって、より成長を促しているように見える。ただ、それは、当初から自分だけで作品を作っていない、という感覚があってこそかもしれない。

 

映画監督は作家なのか職人なのかというのは、おそらく監督自身にとっても意見の分かれるところだと思いますが、僕自身は少なくとも映画は自分の中から生まれるのではなく、世界との出会いを通してその間に生み落とされるものだと認識してきました。

 

これからの共同体

 

 是枝氏は、映画監督としては、当初から海外の映画祭に参加し続けていることもあり、やはり、例えて言えば発想がメジャーリーガーなのだと思う。だから、国内だけの基準で見ていると、その全体像が見えにくいのかもしれない。

 

 同時に、その視点から見ると、国内の状況もよく見えている感触がある。

 

「インターネットを漂っている人がなぜ右翼というかナショナリストになるのか?」。この問いを考えていくと、人とつながっている実感がない人がネットへこぼれ落ちたときに、彼らを回収するいちばんわかりやすい唯一の価値観が「国家」というものでしかなかったのだということに、気づかされるのです。現代の日本は、地域共同体はもはや壊滅状態だし、企業共同体も終身雇用制の終焉とともに消えたし、家族のつながりも希薄になっている。そこで、共同体や家族に代わる魅力的なもの・場所・価値観(それを「ホーム」と言ってもいいかもしれませんが)を提示できないかぎり、彼らは国家という幻想に次々と回収されていくでしょう。

 

 こうした問題点は、今も継続しているが、その解決まではいかないし、誰しもが選択できる方法でもないのだけど、是枝氏は、回答とも言えることも書いている。ある歴史の一員として所属する「共同体」があれば、それはどこか安心感につながる、といった可能性も提示している。

 

映画祭というのは、「映画の豊かさとは何か?そのために私たちは何ができるのか?」を考える場です。映画を神様に譬えるつもりはありませんが、映画の下僕として自分たちに何ができるのかを思考し、映画という太い河に流れる一滴の水としてそこに参加できる喜びをみなで分かち合う、それが映画祭です。

 

 映画を制作し続ける、ということだけでなく、こうした豊かな経験があってこそなのだろうけど、意図せずに「新たな共同体」の話もしている。

 

自分ひとりの力で歴史を塗り変え、更新してみせるなどといった気負いははなから持ってはいなかった。意外だったのは、自分もまた百二十年つづいてきた映画という歴史の鎖の輪のひとつでしかない、という自覚が諦観である以上に、自分にとっては新しく故郷が見つかったような、不思議な安堵感につながっていたことだった。

 

希望の言葉

 

 だから、こんな「青臭い」ことも自然に表明でき、これが映画同好会の大学生の言葉ではなく、この書籍がでた2年後に「万引き家族」でカンヌのパルムドールを受賞する、ということに、やはり希望は感じてしまう。

 

愛は映るのだ、と気付いたのは大学生時代、早稲田のATCミニシアターで、フェデリコ・フェリーニ監督の『道』と『カビリアの夜』を見た十九歳のときでした。愛の量や質や純度というのは他人と比べるものではないと思いますが、この『海よりもまだ深く』は、いまの僕自身の精一杯の愛を込めたつもりでいます。 

 

 

映画『怪物』サイト

https://gaga.ne.jp/kaibutsu-movie/