アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

 書籍 『みんなの現代アート  大衆に媚びを売る方法、あるいはアートがアートであるために』。グレイソン・ベリー

『みんなの現代アート  大衆に媚びを売る方法、あるいはアートがアートであるために』。グレイソン・ベリー

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 著者は、1960年生まれ。

 2003年に、アート界では重要な賞であるターナー賞を受賞している現役のアーティストでもある。

 恵まれた環境で育ったわけでもなく、いわゆるアーティストとして脚光を浴びるまでにも、長い年月がかかっているし、現代アート界もよく知っているからこそ、皮肉っぽかったり、冷静な視点が目立つように思う。

 

参加型パフォーマンスアートの作品が、どちらかといえば保守的な大人気ラジオドラマで大きく取り上げられたのならば、現代アートはもう遠い僻地のカルトではない。大衆文化の一部に他ならないのだ。

印象派の絵画を写した写真を用いた一連の実験で、被験者たちが、それによく似たもの、あるいはより有名な絵画よりも、定期的に見せられた絵画を好むことも発見している。

私が好きな引用文のひとつに、ニューヨークのマンション群のエレベーターに入る作品でなければアートの世界で成功することはないだろう、というものがある。

 

 こうした見方が説得力も持つのは、著者の実績や経験があるからだろうし、そして、それは本当のことなのだろうとも思う。そして、当たり前だけど、世界の現代アート界は、大金が動く世界にもなっているから、ただの純粋な人たちばかりで構成されているわけではない、という当たり前の事実にも改めて気がつかせてくれる。

 

皮肉なことに、新興の超大金持ちコレクターたちは、まるでフェラーリやハンドバッグを買うような感覚でアートを買っている。

自分の活動をアートだと認識されたい最大の理由は経済的なもので、そこにはとんでもない額のお金----二〇一三年には六六〇億ドル----がじゃぶじゃぶ流れこんでいるのだ。

 

マルセル・デュシャンの影響

 そうした現代のアートへ大きな影響を与えているのがマルセル・デュシャンだけど、現役のアーティストでもある人物が、これだけ簡潔に、それでいて本質的なことを指摘している文章はあまり読んだ記憶はなかった。
 

美術史家のハンス・ベルティングは、私たちが理解するアートは一四〇〇年頃に生まれたと考える。(中略)それから長い時間をかけて人びと、つまりアーティストたちがアートの本質について考えた長い自問自答の時期を経て、一九一〇年代、何でもアートになると言い放ったかの有名なデュシャンが登場する。

二〇〇〇年、あるアートの専門家集団がデュシャンを二〇世紀で最も影響力のあるアーティストに選出した。

彼の定義は独断的だ。彼の概念がきちんと機能するためには他者の、彼の定義に賛同する定足数、人びとの頭数が必要だ。それには、かなりの時間がかかった。

何かを置いて「あれがアートだ」と言うことは、ずいぶん傲慢なことだと個人的には思う。それでも、とても知的なアートの考え方でもある。何より、かなり愉快だ。

自分がアートだと決めればすべてがアートであるという、デュシャンが提唱した考えに人びとは知性的に向き合ったが、概念としてきちんと理解されるまでにはかなり長い時間がかかった。(中略)デュシャンの考えが確かな実を結ぶのは一九六〇年代、ポップアートの作家たちがそれを取り入れた時だった。

 

 そして、その影響は(良くも悪くも)、今も続いているようだ。

 

自分がなんとなくやりたいと思うことをアートだと宣言し正当化しようとする、近年多く見られるようになった戦略でもある。

「アートプロジェクト」という言葉が無意味で下手な素人芸の代名詞となってしまったことが哀しい。テレビ番組をうまくつくれない人がビデオアーティストになり、ヒットソングを書けない人がアートバンドを組むのはよく知られることだ。

 

アートがアートであるために

 こうした冷静で大事な指摘の一方で、実際にアーティストである人間、もしくはアーティストになろうとしている人にとっては、惜しみなく本当で重要なことを伝えているように思える。
 

アートに重なる箔とは何だろう。人びとがアートに振りまくこのキラキラした何か、私たち誰もが欲しがるクオリティを塗布してくれるこの何かを、煮詰めてみたらどうだろう。大抵の場合、残るのは「真剣さ」だ。それこそ、アート界で最も価値ある通過だ。(中略)

 私はアーティストとして真剣に向き合ってもらうことを望んでいる。トレンディかつオシャレであることが脅威でしかないのは、いつかオシャレでなくなることが避けられないから。真剣さは違う。真剣さを付与しそれを守る方法が、言語化という行為だ。

アートに向き合う時は誠実な一対一の体験が必要なのだ。

おそらく現在、アーティストに残された最も突飛な戦術は、誠実でいることなのではないか。それに、作品の驚きは形式ではなくその政治性や社会性に宿るはずだ。

 

 しかし本物であるということ---- 一貫性と誠意、真正さを宿していること------は作品をつくるため、すべてのアーティストに必要な素質だ。そして彼らは、それを自分で守らなければならない。

 

  そして、そこに至るまで、簡単に言えば、いわゆる美大から世の中に評価されるまでのことも、親切とも思える感触で書いている。

 

自分の家族や周辺の社会にうまく馴染めない若者にとって、両手を広げ、寛容さとともに自分を受け入れてくれる美大に入学することは、目が覚めるような体験となるだろう。周囲から浮きがちな彼らにとって、自らの創造性に対する容認と寛容ほど重要なことはない。

 だからこそ、そこからの卒業のときは難しい。だけど、このことがこれほどはっきりと書かれたことは、あまり記憶にない。
 

それまで何年も教育を受けてきた若いアーティストにとって、最も困難な瞬間は美大を卒業する時だろう。

もし誰かが小規模ながらも展覧会の機会を与えてくれたり、グループ展に誘ってくれたら、どんな小さな機会でも掴むべきだ。

学生であることとアーティストになることの間には、はっきりとした区切りがある。

 

 思った以上に具体的な言葉が並ぶ。しかも、そこからの長くて大事な年月のことまで、誠実に書いてくれている。

 

独自性というものは獲得に時間を要する。キャリアを形成するにも時間がかかる。私も三八歳になるまでは全然お金にならなかった。行き先が見えてきたのは、かなりの距離を走った後だったのだ。

私が知る成功したアーティストのほとんどは規律正しい人びとだ。(中略)アーティストたちは出来る人間なのだ!彼らはアーティストになりたいのではなく、ただアートをつくりたいのだ。作品づくりを楽しんでいる。 

私自身、キャリア初期に長らくくすぶっていて良かったことのひとつは、その間に内なる自分を見つけていたこと。すべてのアーティストはそれぞれの方法で、創造性の微かな光源を内に秘め、それを育みながら、アーティストとして成長してゆくという茨の道を進んでいる。これは、私を含む多くの作家が語れずにいる、取扱注意の割れ物のようなものだ。なぜなら私たちが立ち回るアート界を覆う空気は、創造の源泉であるその繊細な体内組織を、あっという間に腐らせてしまうものだから。しかし私は、その創造性の光源を守る。

 

 そして「あとがき」も、アーティストになりたい、もしくは、真剣になろうとしている人間へのメッセージにも思える。

 

最良のアートは声を失うほどに美しいという事実、それは私が嘲り続けたところで微動だにしない。自分には美しいものを探求する義務がある。そんな仕事をしているなんていかに恵まれたことか、私はよく自分に言い聞かせている。 

私が何かをつくり出す時の動機の大部分は、世界を観察し作品化する時に感じる興奮や喜びを伝えたい、というものだ。もしあなたが少しでも「ファインアートの文脈」に乗ってみたいと思ったのなら、それ以上に嬉しいことはない。

 

 現代のアート界の現実と現状。アーティストの現状と理想。

 冷静さと温かさ。それでいて、実は、全てを支えていると思われる誠実さ。

 1冊で複雑で豊かな内容が含まれているから、想像以上に密度が高いのかもしれない。そして、翻訳を手がけているのが現役の現代美術作家であることも、この本の価値を高めているのも間違いないと思う。