自分がこんなにアート関係者に関して知らないことを、知らなかった。
「ART IT」を創刊した人。カルチャーウェブマガジン「REAL KYOTO」発行人。著作を読み、ジャーナリストという役割をきちんと全うしようとしている人、という印象になった。
こういう人を知らなかった、ということは、やっぱり恥ずかしいと、自分で思った。
同時に、自分が比較的、最近のアートのことに対して、無知なことも、改めてわかった。それは、2020年以降、コロナ禍のために、美術館やギャラリーなどに行く回数が圧倒的に減ったせいもあるかもしれない。
例えば、この書籍の表紙になっている黄金の便器は、マウリツィオ・カテランの作品で実際に使えるもので、様々な話題を呼んだ上に、このカテランが、トランプ大統領に贈ろうとした話も、初めて知った。
あいちトリエンナーレ
2019年「あいちトリエンナーレ」の「表現の不自由展」でのトラブルについても、これだけまとまった内容は、初めて読んだかもしれない。
その中で、名古屋市の河村市長への批判だけではなく、アート界そのものへの視点も書かれていた。それは、私にとっては新鮮で、同時に、確かにそうだという指摘だった。
アート界は、現代アートは読む芸術だということを積極的に知らしめてこなかった。責任はアート界にもあると僕は考える。
東京都現代美術館での、2015年の「ここは誰の場所?」企画展のとき、「会田家」の展示に関して、美術館側から、作品の撤去要請がおこなわれ、それに対して、インターネット上で会田誠が反論をしたことがあった。
さらに、2016年の「キセイノセイキ」展は、その展示会場は、何もない場所が目についたが、それが、圧力と自己規制によるものではないかと、言われていた。
ただ、そのことに関して、東京都現代美術館側から、正式な声明などが出されることがなかったのは、観客としても気になっていた。
そのことについても、言及があった。
ご覧いただいたように、美術館上層部のお役人はもちろん、長谷川のような「管理職キュレーター」もすぐれて政治的な「大人」である。ある企画の実現あるいは阻止を図るのであれば、人はすべからく政治的に振る舞い、言語による説得を試みるべきだろう。だから短期的には、アーティストや学芸員は志をともにする者を組織し、政治的に言語を操る術を、世の大人たち以上に獲得しなければならない。
中長期的には欧米の同業者を見習うべきである。「#MeToo」や「ブラック・ライブズ・マター」などの運動を経て、欧米のアーティストや美術館スタッフは、組合を結成したり、デモやストライキを行ったりして、表現の自由の獲得や、問題がある理事や館長やチーフキュレーターの追放や、組織の改革に成功している。日々を漫然と過ごしているだけでは明るい未来はやってこない。戦わない限り勝利の日は来ない。
アートとは何か、を考えさせること
そして、それは、この東京都現代美術館だけのことに関わらず、さらに広く、アート界全体のことにも関わってくることも明言している。
いずれにせよ、日本のアーティストとアートピープルは真面目で弱気すぎるような気がする。繰り返しになるが、必要な理論武装をし、説明能力と交渉能力を高め、仲間を増やさなければならない。アートとは何かをなるべく多くの人が考えるように仕向け、毒にも薬にもなるアートの性質を知らしめ、毒でさえ我々の世界を豊かにすることがあるという事実を共有するのである。
真実はわからないが、見習うべきはグッゲンハイムの姿勢である。(中略)ゲストキュレーターが批判のコメントを出す。館内の有志が内部告発を兼ねた書面を上層部に送る。館長は即座に、自らの名において声明文を発表し、直接スタッフから事情を聴く。併せて、有志の要望に応え、第三者による調査を行う。調査結果が出ると、速やかに館の内外に公表する。一部始終をプレスが報じる。
どれも社会的な施設として当たり前のことである。その当たり前のことが、米国ではできて日本ではできない。施設の内外で果敢に戦う者も極めて少ない。日本は本当に三流国家に堕してしまった。
現代アートも生き物のように変化するし、場合によっては衰退するし、死ぬこともある。だから、継続的に、様々な人が、いろいろな方法で関わり続けなくてはいけない必要性を考えることができた。