気がついたらギャラリーは閉まっていたり、新しく開かれていたり、それから、やたらと移転することも多い。だから、気がついたら、知らないギャラリーができていることがある。
今回も、そうだった。それも、かなり昔、友人が住んでいたから、何度も訪れていた街だったけれど、その時の記憶だと、とてもアートのギャラリーがあるような雰囲気ではなかった。
ギャラリー
「美術手帖」という、ほぼ唯一とも言える現代美術の専門誌があって、一時期は特集によってだけど、年に何冊も買った時もあったが、今は、ほぼ借りるだけになった。それに、2022年から月刊から季刊誌になったから、ますます接する機会は減った。それでも、そのサイトを見て、新しい情報を得て、出かけようと思うから、今でも信頼はしている。
『美術手帖』サイト
この中で、「LEESAYA」というギャラリーが不動前駅の近辺にできたのを知った。学生時代によく行っていた街だけど、そんな気配はなかったし、最近は行ったことがなかった。だけど、仕事が終わって、いつもとは違う路線を使うと、帰りに寄れることも確認した。
暑いから、駅から歩くのが不安だったけれど、まだコロナ禍がおさまっていなくて、重症化リスクのある人間が身近にいると、人混みを避ける生活は続いているので、このルートは、人も少なそうだし、その街も大規模な繁華街ではないので、自分にとっては都合が良かった。
そして、「美術手帖」のサイトで見た展覧会は終わってしまったが、次の個展も、それほど期間を置かずに始まっていた。
LEESAYA
久しぶりに、不動前の駅で降りた。
ホームで水を飲んだら、びっくりするくらい温度が高かった。
駅は新しくなっていて、昔とは違っていたけれど、改札を出て、ギャラリーに向かおうとして、道路に出たら、急に昔の自分を思い出すような気持ちになったのは、短い距離で折れ曲がっている独特の道筋が変わっていなかったからだと思う。
そこから、プリントアウトした紙を見ながら、徒歩7分のはずのギャラリーを探した。このあたりの典型的な住宅街で、微妙な登り坂を歩いて、確か近くに寺があったはずだけど、と思いながらも、地図を読むのが苦手なこともあって、ギャラリーがどこにあるのか確信も持てずに歩き、おそらくは昔のままの道筋が残っているせいか、懐かしい感じまでする道路に出て、番地を見たら、ところどころに商店が並ぶ。すぐそばまで来ているはずだった。
でも、その気配もない。なんだか、人が並んでいると思ったら、坂道にあるバス停だった。
そうしたら、そのそばにギャラリーがあった。
その周囲からは、ただ異質感のある入り口だった。
『聞かれなかった声』
『LEESAYA』サイト
ガラスに作家名と、会期が書かれている。
高橋銑。
ガラスの向こうに、そのスペースをゆるやかに区切る壁があって、そこに展覧会名がある。
聞かれなかった声。
ギャラリーでは、よく見る構成だったけれど、それだけで、アートに近づいた気がした。中は白い壁。床は以前の建物のものをほぼそのまま使っているようなコンクリート。
そこに細長い直方体の3つの台があって、それぞれの上にレコードが設置されているレコードプレーヤーが置かれている。
入り口に立ててある壁の裏に、作家の言葉がある。
アセテート盤という再現性は高いが、とても柔らかいレコードが、ここにあって、それだけに再現性が高いが、耐久性が低い。だから、数多くの再生には耐えられない。ここにあるレコードプレーヤーにはカウントされる数があって、それは再生数になっている。ここに来
た鑑賞者は、再生すれば、そのレコード盤の劣化に確実に関与することになるが、再生してもいいし、一切再生しないで、この場を去る権利もある。
そんなようなことが書かれていて、だから、やっぱり再生をすることに決めて、入り口付近のプレーヤーのスイッチを押す。カウントは「1141」になっている。
プレーヤーは、自動的にレコードに針を落とし、演奏を始める。雑音が多い。ザザザーといった音。そこに微かに声が聞こえてくる。これは、聞かれなかった みたいなところまでは聞き取れる。カウンターは、1つ足されて、「1142」になった。このレコード盤の消耗に確実に手を貸したし、これで、ますます録音されていた声は、聞き取れにくくなっていく。
次のレコードプレーヤーは「242」になっている。
スイッチを入れる。
「これは、聞かれなかった声。
これは、聞かれなかった声」
それだけを伝えると、再生を終えた。はっきりと聞こえる。
3台目は、カウントは「80」になっていて、もっとはっきりと、声が聞こえる。
そんなことをしていると、奥から、このギャラリーのオーナーらしき若い人が出てきた。
アートと時間
少し話を聞いた。
3台のプレーヤーは、それぞれ最初の段階で、「10」「100」「1000」の再生をしてから、個展を開始したらしい。確かに、そういう違いがないと、こうして、音が劣化することを体験できなかった。
ここには、3台のレコードプレヤーと、作家の言葉しかない。だけど、ここで聞いたことで、そのあとにまでいろいろなことを考えることができた。
ギャラリーで、「これは聞かれなかった声」という音声を聞いていたけれど、それ自体が、矛盾した出来事だった。その内容と、実際が合っていなかったからだ。特に、再生数が3ケタくらいのレコードでは、はっきりと聞こえるのだから、「聞かれなかった声」にはなっていない。
だから、まだ、作品は完成していない。
もっと再生数が重ねられ、どのプレーヤーからもカウントだけが増えていっても、ただ雑音しか聞こえなくなったら、この「これは聞かれなかった声」という録音されていた内容が本当になる。
だから、そういうこれからの時間も含めて想像ができて、そのイメージも含めて作品だと思うと、時間も取り込んだ作品だとわかる。
同時に、ギャラリーに「再生しないで立ち去る権利もある」といったことも書かれていたが、そういう観客がいたとしたら、今、まだ録音されている内容がわかる段階であっても、そのレコードの音声を聞くこともないのだから、その人は、もっとも正確に鑑賞したことになる。
そんなことまで思えたので、豊かな時間になった。
そのギャラリーにいた人が、本当にオーナーだったのかを確認していなくて失礼だったのだけど、自分と同世代(30代半ば)のアーティストの個展を開いていきたいと言っていたので、それだけで、楽しみになってしまった。
コロナ禍に入ったあたりに、このギャラリーを始めたらしく、あの美術館まで閉められた時期もあったことを考えただけで、大変そうだし、年間に8本から10本の企画展を開いているということを知った。それが、よりすごいことだと思えたのは、このギャラリーがある近辺は、本当にアート関連の施設などもないから、集客も難しいのでは、と勝手に思ってしまったからだけど、そう考えること自体が失礼かもしれない。
それでも、こうしたギャラリーが突然現れる感覚も面白かったし、広くないスペースでも、イメージのふくらむ作品を見せてくれたので、また来たいと思った。それに、このギャラリーの名前も、よくわかっていなかった。なんて読むのだろう?