以前から、公共空間の彫刻に関しては、自分が思った以上に気になっていたことを、この本を読んで、改めて分かったし、彫刻は、ずっと公共空間に存在するだけに、やはり重い思惑があることを確認できたような気がした。著者自身が、現代という時代に彫刻も作るアーティストだけに、言葉にリアリティが増しているように思った。
それでも、その彫刻の歴史も、恥ずかしながら、きちんと知ったのも初めてだった。
公共彫刻は、それが制度として導入された一九世紀末から一九四〇年代までの日本社会においては、「偉人」の像容を利用した国民的記念碑に他ならなかった。
彫像が林立し設置の最盛期を迎えるようになると、置かれる場所と彫像とのかかわりを見出すことのできないものが多く見られるようになった。国民学校の校庭に置かれた二宮金次郎(二宮尊徳)像、楠木正成像などがその一例である。楠木と二宮の銅像は大量につくられ、大日本帝国が統治した海外の国にも教化のために置かれた。彫像は、この国が軍国主義の色を強めていくにつれて、石碑の系譜の延長上にある慰霊碑や碑としての存在から、国家有用のディスプレイとして教化の道具と化していった。
しかし、その後、戦中の金属回収のために彫像も供出されることになり、戦後の体制の変化によって、そのまま、失われることも少なくないようだった。
美術史家、平瀬礼太の調査によれば、日本全国の五六一三の記念碑のうち、戦後一〇年間に三五四の彫像が撤去され、八九〇の記念碑と二九の彫像の外観が変更され、あるいは銘が変更されたという。金属回収と占領下での撤去の流れを乗り切り、あるいは再建を果たした像もあったが、多くは失われるに至る。そのようにして空の台座が残されることになった。
そして、戦後、そこには違う彫像が据えられることになった。
その空白を満たした「かわりの像」は、平和という名の女性裸体像だった。
戦時はミリタリズムの本拠であった東京・三宅坂に、皇居に向かって手を振るように立つ《平和の群像》という名の三人の女性裸体像がある。《平和の群像》は、軍閥の威光を顕彰する軍人・寺内元帥の銅像が据えられていた台座を再利用し、戦後に誕生した「かわりの像」の代表的事例である。
ただ、戦前戦時の彫像も、戦後の平和の裸像も、意味としては全く同じと著者は言い切っている。
つまり、公共空間にある銅像は、政治的な意味から逃れることは難しい、ということは、わかったような気がした。
わたしは不思議で仕方がないのだ。中国、台湾など漢字文化圏ではsculptureは「雕塑」と訳される。しかし日本においては「彫刻」なる訳語が定着し続けた。「それは彫り刻まれたものである」と言いながら、「それは彫り刻まれたものではない」と同時に言うこと。「それ」を名指しながら「それ」を「それ」たらしめる中心義を否定すること。そのようなsculptureが抱える困難をそのままに移植されたのが本邦の彫刻だ。このようなことが起こったのは、アジアにおいてこの国のみである。だからこそ、ほかの場所ではできない問いの立て方ができるのではないかと思うのだ。
レーニンの遺体のこと。「わだつみ像」。2020年は、世界的には彫像がかつてなく破壊された年であったこと。そうした具体的な事柄だけではなく、こうした「彫刻」に関する本質的な考察にまで踏み込んでいる。
そのため、駅前の彫像などの見え方が、少し変わった気がする。
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