アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

近内悠太 連続講座 第6回「ケアと利他、ときどきアーナキズム」。2023.7.17。隣町珈琲。

 それほど、頻繁にはないけれど、本を読んでいて、ある言葉が印象に残って、その著者のことも忘れないことがある。
 
『世界は贈与でできている』 近内悠太

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誰にも迷惑をかけない社会とは、定義上、自分の存在が誰からも必要とされない社会です。

 

 こんなに本当で大事なことを、ちゃんと書いてくれる人がいて、ありがたいと思った。だけど、それから、失礼な話なのだけど、しばらくすっかり忘れていた。

 

「ケアと利他、ときどきアーナキズム」。

 

「隣町珈琲」サイト

https://tonarimachicafe.jp

 

 地元に近い場所での貴重な文化施設でもある「隣町珈琲」は、数えるほどしか行っていない。その講座にも出かけたことがあって、だから、そのイベントのお知らせはメールで来たりもする。

 

 そして、その大事なことを書いてくれた人が、「ケア」のことを語ってくれていることを知った。そして、気がついたら、6回目になっていて、これまで参加していないけれど、大丈夫ですか?というようなことを問い合わせをしたら大丈夫だという返信が来たので、チケットを購入して、出かけることにした。

 

 こういうトークショーでリアルに出かけるのは、本当に久しぶりだけど、まだコロナ感染は怖くもある。そして、最初の場所から移った隣町珈琲は広くなっていて、そして、人は少なく10人くらいしかいなかった。それでも、こうして、同じ場所にいる人が話して、それを聞いて、考えたりする空間は、気持ちが良かった。

 

介護の経験

 個人的な経験だけが重要でないのは分かっているけれど、自分自身も家族の介護を19年間してきた。その中で、いわゆる研究者の論文を読む機会もあって、その遠い場所からの視点に、怒りを覚えたことも少なくなかったし、それが、客観的だったり、俯瞰的視点として必要なこともあるし、それだから始めて分かることもある。

 それは理解しているつもりだった。

 2000年に介護保険の運営が始まり、ちょうどその頃から介護を始めた私にとっても、最初は「ケア」という言葉はなじめなかった。どうして「介護」という、広く使われていた言葉ではなく「ケアマネージャー」といった用語にするのか、抵抗感があった。

 何より、現在の高齢者の多くにとって「介護」は馴染みがある上に、言いやすいけれど、「ケア」は、発音しにくそうだったからだ。

 

「ケアの倫理」

 介護をしながら学校に通い、資格もとり、家族介護者の心理的支援として「介護者相談」を始めて、同時に、人前で話す機会を与えられれば、介護者の理解のために、と思って話をした。

 だけど、もっと公的な支援として広がると思っていた「介護者支援」、特に心理的な支援は必要だと思ったし、だから、家族介護者向けの相談窓口が増えると思っていたけれど、そんな動きもほぼ感じられないまま、10年が過ぎた。

「介護者相談」は続けていたし、ボランティアとしても行っていたけれど、個人ができることは限られていて、その広がりのなさに無力感を覚えることも少なくなかった。

 

amzn.to

 

 だけど、ここ最近になって、こうした書籍を読むようになって、すでに介護とケアがイコールでないのはわかっていたから、もっと幅広く考えたり、伝えたりした方が、おそらく遠く、広く伝わるのだろうと、思うようになった。すでに古い言葉かもしれないが、理論武装も、より必要な気がしていたからだ。

 その一方で、でも、ケアの真ん中には、やっぱり介護があって、その現場を無視するような抽象的な議論になったら嫌だな、素材のような、もっと言えば「ネタ」のように扱われたら嫌だな、と思ったりもしていた。

 ちょうど、そんな時期に、この連続講座のことを知った。もしかしたら、5回目までは、目にしていたけれど、どこかで気持ちが拒否していて、だから、気がついていなかったのかもしれない。

 

「ケア」の定義

 連続講座 第6回「ケアと利他、ときどきアーナキズム」。近内悠太氏の講座は、最初にケアの定義から始まった。

『他者が「大切にしているもの」を共に大切にする営為全体のことである』。

 その定義は本当にいい、と思った。

 その後も、興味深く、そして、こうしたことが常識になればありがたい話が続いた。

 

 ホスピタリティーは、全身全霊であなたを大切にする、ということ。

 ただ、言葉でいうのは簡単だけど、それだと伝わらず、言葉以外のことで、あなたの生きてきたことは、何も間違っていない、とメッセージを伝えること。

 だから、たとえばバリアフリーではない場所は、その不便さもあるけれど、あなたの存在は間違っている、と伝えられていることだからではないか。

 

 これは、近内氏の話したことの部分を文章にしたに過ぎないから、やや正確性に欠けるとは思うのだけど、研究者の人が、こうした思考をきちんと形にしてくれるのは、やっぱりありがたいように思えた。

 

 さらに、話題は、利他に移る。

 

 自分の大切にしているものよりも、相手の大切にしているものの方を、優先する行為。

 

 そこから、ケアにおいて、過去の出来事の意味を変える。そのことによって、現在が過去を変える、という時間に関わることになるという話にもなる。

 

 他にも、フランツ・カフカが、人形をなくしてしまったと悲しむ少女へ、人形からの手紙として、文章を書いて、あなたは間違っていない。そういうメッセージを出すという具体例を示してくれたりもした。

 

 これらのことも、私自身の理解の範囲内なので、やや正確さに欠けるとは思うのだけど、こうして、同じ場所にいて、他の人たちと一緒に話を聞くのは、とても豊かな時間なのは間違いなかった。

 

懸念

 全体としては、充実した内容で、誠実な講師だという印象だったのだけど、一つだけ気になったのが、ヤングケアラーについて触れた部分だった。

 この近内氏は誠実な研究者で、優秀な人という印象だったけれど、そのヤングケアラーのことについて話すときに、微妙な懸念が湧いた。現実の介護者である、ヤングケアラーが置いてきぼりにならないように、理論によって、当事者が傷つかないようにしてほしいと思って、そういう懸念を、講義が終わった後に、質問だか、お願いだか分からない整理されていない話をしたのだけど、きちんと聞いてもくれた。

 

 だから、感謝する気持ちもある。次からの講義も参加したい思いもある。ただ、その場の空気を乱すような質問をしてしまったような後めたさまで残った。