アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「モネ それからの100年」。2018.7.14~9.24。横浜美術館。

f:id:artaudience:20211025095328j:plain

「モネ それからの100年」。2018.7.14~9.24。横浜美術館

2018年9月10日。

 モネは、つみわらの連作で、同じ風景を何枚も何枚も描いて、それは同じではなく、光が違うから、みたいなことを言った。そんな伝説みたいなものが残っているらしいことを知り、改めて、すごいと思った。

 

 この人が、生きているうちに成功したのは時代の幸運みたいなものもあるとは思う。風景画、というものが定着していったり、産業革命のあとに、王族でない金持ちが産まれて来たり、といった背景があったのだろうけど、睡蓮という、自分の家の庭を延々と描き続けたのも、目が見えにくくなっても、それでも、自分にはこう見えるから、ということをそのまま行った、ということも、すごいと思う。

 

 それは、特に晩年の作品が抽象表現に近い、といったことだけでなくセザンヌが本格的に形にした、自らの意志が自然より優先されるみたいなことを、モネは、もっと徹底して、それも知性というよりは、感情を優先させて、というより、本当に見えるもの、自分には見えるもの、こう見えた、を徹底させたのだろうな、と思えるような作品だった。そして、時々、美術館などの常設展などで見えるモネの絵は、やけに明るく、どうして、こんな風に明るいんだろう、と思うことが多かった。

 

 今回は、初期から晩年まで絵画25点、が集められているらしい。そして、それだけでなく、あとの世代の作品も、それは、影響を受けている、といえば、受けているのだろう、というようなものから、参照にしている、というか、トリビュートのような作品までが並んでいた。

 

 平日の昼間に出かけて、それも月曜日だから、他の美術館などは休みなので、ここもうっかり休みと思う人もいて、空いているのではないか、と思ったら、普段はかなり空いているコインロッカーがほとんどうまっているほど、混んでいて、展示室もかなり人がいっぱいいる。

 

 片方にモネ、そこの対面に他の人の作品、という構成で、前もっての情報で、モネの方は人がたくさんいて、作品の前に人垣が出来ていて、逆の面は、あまり人がいない、というのは本当だった。

 

 モネの初期の作品は、全体が暗くて、あれ?と思うと、そこに光がさしていたり、夕暮れで、空の明るい場所と、地面の日が射す場所が、微妙にズレがあったり、といったようなことも描きこんであったりして、この人はよく見えている、というか、写真を撮ることはしなかったのだろうか、と思ったりもした。

 

 そこから、ただ、見えているように伝えたい、みたいな基本的な欲望を晩年まで失わなかったり、といったことを、全体がぐにゃぐにゃになった晩年の絵を見て、改めて思ったりもしたけれど、こうしたおそらくは自分でもコントロールできないような、よく分からないことに従ったみたいなところを、もっとも真似るべきではないか、などとも思ったが、日本画の人が、今回見た中ではもっとも整っていた睡蓮を、そのまま模写したような作品を描いていて、それは、かなり真剣なだけに、どうしてそんなことをするんだろう、とも思った。

 

 リヒターの作品が、妙に金属ぽくて、あリヒターだ、と思ったりもして、いつもシャープでかっこいいように見えて、いろいろと真似しやすそうなのに、他にはいないのは、それがアート界のルールなのかな、と思ったりもしたし、リキテンシュタインの作品も、これも金属感に満ちていたのだけど、その大きさがポイントで、ポストカードになったら、つまらない作品に見えたので、大きさにだまされたのか、それとも大きさが重要なのか、といったことを考えたりもした。

 

 それでも、久しぶりに展覧会に来た、というような思いにもなれたし、モネが今も人気があって、人が呼べる、のは何故なのだろう、と思うと、風景画だから、ということなのだろうし、こうした描き方をしてきた人はたくさんいたと思うのだけど、おそらくはただ地味になってしまうだけなのだろうし、何が違うのか、またよく分からなくなった。ただ、もっとモネとつながるような作家はいるような気もした。横浜美術館だったら、フランシスベーコンとかと一緒に見たいと思ったりもした。

 

(2018年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

www.amazon.co.jp