(「あ、共感とかじゃなくて。」サイト)
https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/empathy/
SNSの「いいね!」や、おしゃべりの中での「わかる~~~」など、日常のコミュニケーションには「共感」があふれています。共感とは、自分以外の誰かの気持ちや経験などを理解する力のことです。相手の立場に立って考える優しさや思いやりは、この力から生まれるとも言われます。でも、簡単に共感されるとイライラしたり、共感を無理強いされると嫌な気持ちになることもあります。そんな時には「あ、共感とかじゃなくて。」とあえて共感を避けるのも、一つの方法ではないでしょうか。
この展覧会では、有川滋男、山本麻紀子、渡辺篤(アイムヒア プロジェクト)、武田力、中島伽耶子の5人のアーティストの作品を紹介します。彼らは作品を通して、知らない人、目の前にいない人について考え、理解しようとしています。安易な共感に疑問を投げかけるものもあれば、時間をかけて深い共感にたどりつくものもあります。それを見る私たちも、「この人は何をしているんだろう?」「あの人は何を考えているんだろう?」と不思議に思うでしょう。謎解きのように答えが用意されているわけではありませんが、答えのない問いを考え続ける面白さがあります。共感しないことは相手を嫌うことではなく、新しい視点を手に入れて、そこから対話をするチャンスなのです。
家族や友人との人間関係や、自分のアイデンティティを確立する過程に悩むことも多い10代はもちろん、大人たちにも、すぐに結論を出さずに考え続ける面白さを体験してほしいと思います。
これが、ホームページにも、チラシにも載っているステートメントといっていいものだと思うし、こうした文章を嫌う人もいそうだけど、でも、こういうことを考えて、展覧会を開くこと自体に意味があると思っていた。そして、個人的にも知っている名前は一人だけだった。
もちろんこうした展覧会を開催するのも、アートの仕事であって、観客からは見えない様々なビジネス的な側面はあるとは思うけれど、それでも、切実さや誠実さが、そこにあるような気がしたからだ。
展示室の壁にも、こうしたステートメントのような文章が並んでいた。
そして、展示室に入ると、いくつかの展示会などで見かけるようなブースが並んでいて、それぞれにモニターがあって、そこで何かをしている様子が流れ続けていた。
有川滋男
部屋に入ると、それぞれの会社が業務内容を説明するブースが並んでいます。モニターの動画を見て考えてみましょう。この人は何をしているのか。何のための仕事なのか。この後何が起こるのか。
映像作家。人間は見ているものに、意味を読み取ろうとする。そこであえて意味を分かりにくくして、「見る」ことの不思議さを問いかける。アムステルダム在住
(MOTサイトより)
それぞれのブースに、確かに、何かの仕事をしていて、その様子を広く伝えようとする映像が流れている、ように見えた。
いかにも測定会社のようなユニフォームを着て、何かを測っているのだけど、それが何の役に立っているのかわからないのだけど、緻密に作業をしているのだけは伝わってくるような人たち。
映像の中では、風力発電機が並ぶような場所に行って、黄色い大きいメガホンのようなものを持ち、何かの発声をすると、その時だけ、ブースに置いてあるそのメガホンから音が流れたりするブース。
この会場の設置をしている様子を撮影して流れている映像もある。
何かが起こりそうで、何かが面白そうで、何かが分かりそうで、なんとなく、そのまま何ヶ所かのブースを見て回った。
こちらの理解が届いていないだけかもしれないが、もう少し、それぞれの仕事の具体的なリアルさが伝わってくるような場面があれば、もっと強く印象に残ったような気がした。
巨人の落とし物である大きな歯を作ったり、その歯を抱えて眠って見た夢の絵を描いたりしています。植物や土に触れながら、生きのびること、待つことについて考え、巨人の世界を知ろうとしています。
―どこかの場所について詳しく調査し、そこに住む人たちとのコミュニケーションを元に作品を作るアーティスト。落とし物を拾うのが得意。滋賀県在住(MOTサイトより)
靴を脱いで、部屋のようなゆるやかな檻のような場所に、大きい歯がごろっと転がっているのは、わかるし、そこに目がいく。
それは、巨人の落とし物、という「設定」で、だけど、その土地の植物を使って色を染めたり、その周辺にあったであろう、様々なものが並べられている。さらには、その大きい歯を川で流した映像も映っているが、それは、バカバカしいという思いもありながら、眼が惹きつけられているし、もし、近所の川にこの「巨人の歯」が流れていたら、と想像すると、やっぱり面白いと思った。
そして、自分が想像する世界を再現し、それを人と「共有」しようとする姿勢はすごいと思いながらも、それが押し付けがましくないから、ちょっと気持ちがいいのかもしれない。
そこにある様々なものは作品として並べてあって、魅力的に見えた。
移動図書館のような車に、むかし誰かが使っていた小学校の教科書が並んでいます。自分と同じ教科書はありますか?さまざまな時代や地域の教科書と比べたり、らくがきから元の持ち主を想像したりしながら、社会や教育について思いをめぐらせます。
―演出家、民俗芸能アーカイバー。参加者との相互作用で生まれる作品や、盆おどりのように誰かの暮らしで生まれた動きを新しい世界に渡す活動など。東京都/熊本県在住(MOTサイトより)
3階か4階までの吹き抜けがあって、しかも、視野が広くなっている場所に、ワゴンカーのような乗り物が停めてあって、その前に、イスがあって、「教科書」がある。それは、古いとは言っても、10年や20年前であっても、自分にとっては、新しい教科書で新鮮だった。
ただ、この教科書は古びていて、誰かが使ったものらしく、物質としては古いものだった。そして、21世紀になってから政治の介入とも言われた道徳の教科書を初めて読んだけれど、すごく窮屈な感じは確かにした。そして、何冊か目を通しただけだけど、教科書は、時代が変わっても、そんなに面白くないのは、少しわかった気がした。
大きな壁がある。
その壁の向こう側には、暗い部屋がある。
遮っているのは、わかるから、その向こう側に回ると、この展覧会の入り口付近だった。
小さな穴が開いているような壁で、明るい側には、家の玄関にあるようなチャイムのようなボタンがあった。だから、妻にお願いして、暗い側にいてもらって、そのボタンを押して、その後に合流して、どうだった?と聞いたら、どうやら、押していると、その小さい穴が開いて、目と目が合うらしい、ということがわかった。
そして、その作品は、こうしてコミュニケーションの難しさ、といったことだけではなくて、そこから少し離れた場所にある鉄製の扉の中に(なんとなく気後れして、スタッフの方にあけてもらった)ミラーボールがあって、それは、輝くものだけど、その扉の中にあったら外からは見えないし、そうした光を乱反射する機能も使われないままになる。それは、何かの比喩らしいが、それについては、ややピンと来なかった。
新型コロナがはやって、みんなが外出や人に会うのを控えていた時、同じ月を見て、写真を撮るというプロジェクトを始めました。寂しさを感じている人、見えないつらさを抱えている人がいることを、いつも思い出せるように。
―元ひきこもりで、当事者をケアする活動家でもある。アーティストとして、孤立している人の存在を多くの人に想像してもらおうとしている。神奈川県在住(MOTサイトより)
アイムヒア プロジェクトと名付けられたアートプロジェクトを行なっているアーティストということは知っていた。そして、その個展についても見たかったけれど見られなかったから、今回、グループ展で見られるのは、ちょっとうれしかった。
以前、自分自身がひきこもりだった経験を生かし、というのとは少し違うのかもしれないけれど、作家本人が、ギャラリーの中のコンクリートの小屋のような箱に何日も閉じこもって、自分のタイミングで内側から壊して外へ出る、という展覧会が2014年にあった。
https://www.atsushi-watanabe.jp/works/2014/止まった部屋-動き出した家プレスリリース/
床には、大きめのクッションが置いてあって、そこに少し横にもなれるし、そして、これも募集されたそれぞれの人の引きこもっている写真が、ガラスケースのカーテンの向こうにある。
この展示室は、このグループ展の中でも、少し独立したような気配さえあった。
あ、わかった、といったことも少なく、どちらかといえば、そこからまた考えたりする作品が多かった。
そして、また元に戻ってきた入り口付近のランプも作品で、それは、この会場ではなく、別のどこかとつながっていて、そこでは、ここにはいない「誰か」の意志によって、ついたり消えたりしているらしい、という文章を読んだら、その「誰か」のことを、やっぱり想像してしまって、意識の広がりのようなものは、感じたような気もした。
来て良かった。
そして、今回、これまで知らなかった興味深い作品を制作する、アーティストを知ることもできて、よかった。
「現代美術史」 山本浩貴