アーティゾン美術館になってから初めて行った。
常設展の中に、特集コーナーが設置されていて、そこで「読書する女性たち」というテーマだった。
『ヨーロッパでは、読書という画題は、男性に属するものと考えられてきました。書物は、その男性の職業や社会的地位を表すもの、あるいは、知識や権威、思索の象徴としての意味を担っていました。
ルネサンス期に印刷術が発明されると、宗教書以外の書物が市場に出回り、17世紀に入ると小説が娯楽のひとつとなりました。18世紀には識字率が向上して、女性の読者が増加しました。そして、読書する女性の姿が多くの絵画に描かれるようになります。
西洋に学んだ日本近代の画家たちも、同じ画題を取りあげました』(ハンドアウトより)。
時々、どうして本を読む女性が絵画になっているのか不思議に思うこともあったのだけど、そうした背景があったのだと初めて知った。そして、そう思ってみると、今まで平凡な画題と思っていた「本を読む女性」が、ちょっと違って見える。
『ヨーロッパへ留学した日本人画家たちは、西洋にならい、読書する女性を画題としました。たとえば和田英作は、パリ南郊のグレー=シュル=ロワンで浅井忠と共同生活を送りながら、宿のそばに住む20歳前後の女性をモデルに制作しました。ふたりの日記によると、モデルの女性は、子どもが泣くのを無視して平気で小説を読んでいたそうです。
読書する女性たちは、西洋的な画題として日本で受け入れられ、多く描かれるようになりました。とりわけ明治末期の文展(文部省美術展覧会)には、「婦人読書図」が多く出品されています。
(中略)
大正時代になると、読書は良妻賢母というあり方にふさわしくないと考えられるようになりました。読書にふけって家事をないがしろにする風刺画が描かれたほどです。「読書する女性」は、東西の時代背景を伝えてくれる重要な画題です』(ハンドアウトより)。
こうした画題も「輸入」されたものだったのだと思った。だから、西洋と日本では、その絵の意味は違うのだろう。ただ、大正時代以降、「読書は良妻賢母にふさわしくない」という時代背景になってからの、日本の「読書する女性たち」には、また違う意味合いが加わったのかもしれない、とも思った。
(『すぐわかる画家別近代絵画のみかた』 尾崎正明 監修)