1997年7月17日。
アンディ・ウォーホルの「芸術新潮」の特集で、共作の作品を見て、バスキアの名前を初めて知った。そのタッチがとても気になっていた。こういうエネルギーな線は、やっぱり好きだと思った。
「芸術新潮」(1996年6月号)
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=6703702
アメリカ社会の中で、黒人であることの意味。それは東洋の端にある日本では、たぶん実感としてわかることはより難しい。ただ、バスキアの作品を、作品のまま、より正確に見られるのは、もしかしたら、東洋人なのかもしれない。
パルコギャラリーでは、小さな作品が多かったが、確かに爆発していた。ただ、思ったよりもそれはコントロールされていたし、冷静さや計算も確実にあった。それでも、雑誌で見た時に感じたのと同じような魅力は、あった。
もっと、大きい作品が見たい。
現在、「バスキア・ブーム」などという言われ方もされている。
自分とは、何の関係もないのだけど、生きていれば、私自身と、ほぼ同世代の人間でもあった。亡くなったのが1988年だから、もうすぐ10年がたとうとしている。
チラシの文章は、椹木野衣だった。
『黒人文化の伝統から切り離されるということは、バスキアにとって必ずしも幸福なことではないかもしれない。しかし、表現することはどのみち、幸福なことではありえない。わたしたちは、表現者としてもっともっと不幸にならなければならない。もっともっと多くを抱え込まなければ、バスキアの孤独は理解できないだろう。彼の「不幸」が他人事に見えている限り、わたしたちの「表現」はまだはじまっていないのだ』。(チラシの文章の一部を引用)。
(1997年の記録です。一部、修正・加筆しています)。