アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「村上隆 展  727」。1996.10.12~11.10。小山登美夫ギャラリー。

f:id:artaudience:20200824110659j:plain

村上隆 展  727」。1996.10.12~11.10。

小山登美夫ギャラリー

1996年10月。

 初めてちゃんと作品を見てから、半年もたっていないのに、気がつかないうちに、彼の作ったキャラクターであるDOB君を憶えてしまっていた。

 

 ビートたけし村上隆が雑誌で対談していると、それだけでその雑誌を買おうと思えた。

「東京をアートの中心にしたい」といったことを、どこかで言っているのを聞くと、確かにハッタリではなく、そういうことを思ってきちんと正確に努力していかないと仕方ないが、短い時間だし、偉そうで申し訳ないのだけど、閉鎖的に見えるようになったアート界では珍しい存在かもしれないと見るようになっていた。

 

 門前仲町駅で降りて迷いつつ食糧ビルという古い探偵小説の舞台になりそうな建物の中にあるギャラリーへ行った。『村上隆展 727』。ミッキーマウスのようなキャラクターのDOB君が、かわいい、というスタイルではなく、目玉が増えたりキバをむいたり何匹もつながったりして、それが平安時代の絵巻物の中にいた。

 平塚市美術館で見た時は、反感がわいてきたのだけど、この作品は、素直に見ることができた。作者にも、いろいろなことがあって、その感情の反映がされているようにも思えて、知識はなのだけど、いい作品だと感じた。

 

 そのギャラリーを出て、1階に行ったら、そこでも「ピコピコ展」というのも開催されていた。イベントが、金、土、日に行われています、といったことらしいが、まだギャラリーに慣れていなかったし、ちょっとこわくもなって、その会場に入ることもできなかった。

 

 

(これ以降は、1999年に書いています)。

 

 その後、「誰でもピカソ」という番組でアートバトルの審査員でも村上隆を見るようにもなり、器用な人だという印象も強くなった。貧乏をテーマとした回にも出てきて、「アーティストも経営者的な考えが必要なんです」といった発言や、会田誠に関して「彼は頭が良すぎるんですよ」といった少し警戒心の混じった言葉を聞いて、村上に対しての「妙な遠慮」のことを思い出した。

 

 頭がいいというのは、村上自身のことでもあるのだろう。ただ、おそらく会田が自分の作品に対してアタマがいいとすれば、村上は自分の作品を世の中に通していくことに関してあたまがいいということだと思う。いいものを、きちんと流通していくようなシステムがないから、自分でやるしかないというのも分かるような気もする。でも、村上の作品に対して何か意見をいうと、すぐに軽い微笑と共に完璧な反論が返ってきそうな気がしていた。それは、興味を持って、村上の発言を知るようになったせいでもあったのだけど、その影響で、作品を見た時、妙な遠慮をしてしまっていたのだ。

 

 ただ、村上に対しての反発が本当にアート界からあるのを、最近(1999年)も確認できた。あるトークイベントで、ウケれば何でもいいのか。アニメなどを扱う村上らの活躍に対して、そんな印象を持っているアーティストの言葉を聞いて、そういう見方がたぶん少なくないと分かった。

 

 それと同じような時期、「スタジオ ボイス」1999年5月号に村上隆の話が載っていた。ところどころ抜粋してみる。

 

『DOB君は、初めは、日本の現代作家の節操のなさへの批判として作ったの。ジェニー=ホルツァーが流行ればギャラリーの壁に英語の文章を貼って見せたりする人たちへのね。しかも英語間違ってたりして。そういう西洋的アートへの憧れ万歳的作品って、日本のアートファンって好きだったりしてたんで、それへのアンチね』。

 

 言葉は乱暴かもしれないが、すごく正論に感じた。こういう嫌悪感は持って当然だし、逆に持てない人はダメだろうとも思う。

 でも、村上個人だけの問題ではないけれど、まだ作品から、何が出てくるか分からないワクワク感が足りないと思うのは、欲張りすぎだろうか。自分の好みに対して平気で無防備でいられる強さを要求するのは筋違いだろうか。でも、小室哲哉というプロデューサーの戦略と欲求の違いがよく分からず、もしかしたら、全てが自分の感情を通すためではないだろうか、とテレビを見ていて思ったりさせるところがある。そうしたことも、可能だろうか。でも、まだキャリアの短い観客の勝手な見方だけど、村上の慎重さが息の長い活動を可能にしていくのかもしれないとも思い直す。

 

『でも海外での受けと、日本のストライクって微妙に違うからそこはそこで頭を悩ませるけれど。海外用と日本用の文脈は完璧に変えてますよ。

 日本人は自分達でアニメを評価する文脈を作って評価したわけでもないのに、あっちの植民地主義的な文脈にひっかかったことで喜んでいる。それをわかってなおかつ向こうに武器弾薬や病原菌をさしこめるかっていうのが僕らアーティストの立ち位置だと思う。

 

 現代美術が西洋で作られたゲームである限り、向こうのルールをある程度理解しなければ全く認められないっていう状況はしょうがない。だからこそ僕は日本人やアジアの人が自らの手で作るルールについて、そのルールブックを作れるかっていうチャレンジをしてみたいんですよ。(中略)

 

誰でもピカソのことや、横浜トリエンナーレや、村上自身が宮崎駿庵野秀明のドローイングが欲しかったりといった話の後に)

 

 そんなリアルな感覚に文脈をつけ、歴史的な座標点を指し示していく、しかもずっとタフにあらゆるチャンスにあらゆる言語で、それが新しいアートの法則を打ち立てる最小限の仕事だと思う。で、これやります。』

 

 ところどころ自分の理解が及ばなくて分からないし、この話が載ったのもパルコギャラリーの個展を前にしてのプロモーションだろうし、こうした話を読むと、村上こそが頭が良すぎるのではないか、と思ったりもする。そして、こんなことも同じ「スタジオ ボイス」で言っている。

 

『でも、今やDOB君は僕の自画像。ありとあらゆる大きさや素材で表現されて、伸びたり縮んだり、分裂したり、ペインティングにデータに彫刻にいろんなグッズ製作に、とガッーと全部に実際手を出して狂ってしまいそうに暴走している僕の頭の中がそこにあるっていうか、ね。やっとそこまで来ました。』

 

 日本は、やはり西洋からも東洋からもやや孤立しているような気がする。その一方でアメリカのスポーツである野球とそれ以外のスポーツであるサッカーの両方が根付きつつある不思議な可能性もある。様々な意味で現代なはずだから、アートの中心地が日本に来てもおかしくない。そういう中で、「そこまで来ました」の、そこが何をさすのか、未熟な観客には明確に分からない。

 

でも、村上のように活動を続けていくと、いろいろ情報を大量に取り込み、もっと凄く、ある日、さらに、もっと急な変化をするかもしれない。そういう期待を勝手にするようになった。

 

(1996年と、1999年の時の記録と個人の感想です。そこに加筆・修正をしています)。

 

bijutsutecho.com