アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「スーパーフラット展」。2000年4月28日〜5月29日。パルコギャラリー。(渋谷パルコ パート1/8F)

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「SUPER FLAT]

  もっと、いい意味で理屈があるのかも、と思ったが、ものすごく盛り沢山で、顔見せすぎて、もの足りなかった。

   でも、自分が見えてないせいかもしれないし、この展覧会をキュレーションした村上隆が、見せたい対象は、観客ではないかもしれない。

 

   ただ、竹熊健太郎の「中央線の電車の前にトーマスの顔を作れば、自殺者は減るのでは」という絵は不思議な面白さがあって、印象に残り、ここでないとアートだと言われないだろうが、これをアートとして扱っていることが、すごいのではないか、とも思った。

 

   何かのお札みたいなのを買って、壁にはった。会期が終りに近付いていたので、もう、貼る場所で、空いているスペースはほとんどなかった。このスーパーフラット展のカタログは、後になって欲しいと思うようになった。

 

              (2000年当時のメモに多少の加筆・修正をしています)

 

オンラインマガジン SHIFT  「スーパーフラット展」

http://www.shift.jp.org/ja/archives/2000/04/super_flat.html

 

 

 

 

(2020年5月 付記)

 

 かなりあとになって、この「スーパーフラット展」のカタログともいえる本「SUPERFLAT」(2000年4月28日第1刷。2005年4月1日第3刷)を買った。

 当然、英語の表記もあって、このコンセプトブックの方が、ギャラリーでの具体的な展示より重要だったのかもしれない、などと改めて思った。

 

 この本の最後に哲学者・東浩紀が「スーパーフラットで思弁する」という文章を寄せている。こうした人物の凄さも、起用する凄さも、あとになって少しは分かるのだけど、それでも、この文章の理解は、今でもほとんどできていないと思う。だからこそ、よけいに、あまり褒められたことではないのだけど、この文章の最後を引用する。

 

『幼児の世界と大人の世界、イメージの世界とシンボルの世界をきっちり分割する「去勢」のメカニズムが機能不全に陥ったこの社会、ポストモダンにおいては、もはや生者の世界は確立されず、生きているのか死んでいるのか、見る側なのか見られる側なのかもよく分からない、不気味な「目」の記号だけが増殖していく。村上の作る平面はその動きと深く呼応しており、だからこそ私は、「目」のモチーフに固執する彼の芸術活動を、デリダの哲学と合わせ読みたいという誘惑に駆られるのだ。ポストモダンは「視線」が機能不全に陥った世界であり、したがってそこでは、空間も目も、もはや強い機能を果たすことはない。そこでは空間はsuper flat となり、目はアニメ化された幽霊的な記号となる』