アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「プロジェクト・フォー・サバイバル 1970年以降の現代美術再訪」。1996.12.3~1997.1.12。東京国立近代美術館。

「プロジェクト・フォー・サバイバル 1970年以降の現代美術再訪」。1996.12.3~1997.1.12。東京国立近代美術館

1997年1月12日。

 赤と黒を基調としながら、下品にならず、しかもどこかいい意味での危機感を感じるデザインのチラシが板橋区立美術館の棚の隅にあったが、すぐに手にとらせるくらい視覚的な印象が強かった。

『プロジェクト・フォー・サバイバル』。

 魅力的で今の時代にとてもリアルに感じるタイトル。1970年以後の現代美術再訪。サブタイルの意味は良く分からないにしても、とにかく見たいと思わせる。ただ12月から、1月中旬までという見にいきにくいスケジュール。それに自分にとっては、東京国立近代美術館という分かりにくい場所。それだけにチラシを見つけなければ、行けない可能性が高かった。

 

 最終日に行った。凄く空いている。竹橋にある美術館は現代アートには無縁な感じがした。それに、細長いものを持ちこんではいけない。と注意書きがあったが、あとになって、鉄パイプで絵が壊された事件があったのを知った。790円という値段が公共という感じがする。

 

 最初の展示物はかなり前に話題になったことがあるベネトンの広告のパネルが並んでいる。解説によれば、思想的なことを訴えるこの広告をアートの一つとして、展示した「フランクフルト近代美術館」。それに対する様々な反対意見も含めて取り扱ったらしいことが書いてある。そういうのもありと思え、気持ちいい刺激だった。

 

 小さな小部屋には、石で出来たような粗いベッドが並んでいて、その上に水がたまっているところもあり、霊安室のようでちょっと恐くてその部屋だけ温度も少し低い感じがした。妙な重さが立ちこめていた。でも、何度も見てみたくなる場所だった。アンゼルム・キーファー。その名前を初めて知ったが、その後も作品を見たいと強く思った。

 

 何かを試みようとした設計図といっていい作品が、かなり多く並んでいたと分かったのは、かなり後になってからだった。でも、全体としてもおもしろかった。考え方、もっといえば志。そんなものを見せてくれた展覧会は、本格的にアートを見始めて1年くらいだけど、その個人的な経験の中では初めてだった。1000円という値段のせいもあるが、ほとんど初めてカタログも買った。こういう展覧会を、また見たいと思った。

 

 学芸員、もしくはキュレーターの存在が、展覧会の質を大きく左右することを、初めて実感した展覧会だった。チラシの裏の文章も意志が感じられて、何か違う感じもしたので、全文、うつしてみたいと思った。

 

『私たちの周辺から明確な指標が失われたと言われ始めて約20年が過ぎました。確かに、政治イデオロギーはかつての吸引力を失い、人類のユートピアを希求したはずのモダニズムのプロジェクト(投企)もその信頼も失いました。共通の理念や統合的な「大きな物語」を喪失した人々は口々に個別的な「小さな物語」を語り始めています。しかし一方で、人々はかつてない規模で世界中を移動し、「消費の論理」を唯一の共通言語として他者や異文化との出会いを続けているのです。今や私たちは、外部世界との関係を回復し他者と語り合うためのコミュニケーションの前提、その出発点を個人レヴェルで構築する必要に迫られていると言えます。

 明確な指標への信頼、そして「精神」や「個人のアイデンティティ」への信頼を断念したかに見える1990年代の現代美術は、ある意味で文化ペシミズムの状況であると言えるかもしれません。この断念によって、今まで「人間的」とされてきた総てのものが私たちの周辺から失われようとしています。しかし私たちは、こうした状況を文化的な破局としてではなく、新たなパラダイムへの起点として捉え直す態度が必要なのかもしれません。私たちは状況への従属的な立場ではなく、より意志的で投企的な実践に注目すべきではないでしょうか。

 今回の展覧会では、1970年から今日まで、現代美術の批評的転換期に大きな刺激と規範を与えながら、わが国に紹介される機会の少なかった7つのプロジェクトに注目しました。彼らの実践は、今日的な関心——すなわち相対主義第三世界や性差(ジェンダー)、少数者(マイノリティー)の問題に収斂するものではなく、現代に生きる個人や良識ある機関が、どのように世界と関わり、その状況を直視し、外部世界や他者との関係を構築するかという点にむけられています。 

 本展の目的は決して過去を懐古するものではなく、また、総合的に現代美術の歴史を再構成するものでもありません。むしろ、激しく変動した1970年以降の現代美術の動向や批評潮流の変遷の過程で、私たちが見落としてしまった側面−−— 作家たちの毅然とした意志と歴史認識に裏付けられたプロジェクトを再評価し、彼らの実践の中に新しいパラダイムの構築の可能性を探ろうとするものです。』

 

 改めて読むと、少し難解な所もあるが、でも志といっていい、それこそ毅然としたものを感じる。それから、竹橋の国立近代美術館で何をやっているか?かなり気をつけるようになっている。

 

 

(1997年の時の記録です。多少の修正・加筆をしています)。

 

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