アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

「太陽の塔からのメッセージ  岡本太郎とEXPO `70」。2000.10.28~2001.1.28。川崎市岡本太郎美術館。

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太陽の塔からのメッセージ  岡本太郎とEXPO `70」。2000.10.28~2001.1.28。川崎市岡本太郎美術館

 

2001年1月24日。

 できれば、勝手な願望だけど、太陽の塔の背中が見える吹田の国立国際美術館で見たかった。あそこは、万博の時の生き残りだと思う。マンホールのふたにもエキスポ70の文字があった。

 

 1970年当時、私は、小学校3年生の子供の時だったが、なんであんなに万博に熱心だったか、自分でもよく分からない。別に始まる前から、なにがなんでも行きたいと強く主張していたわけでもなかった。ただ、『ニャロメの万博案内』。1冊280円。30年前の値段だから、安くはないと思う。それを3冊揃え、それだけは買ってもらった記憶がある。くりかえし、くりかえし、くりかえし、ものすごく繰り返し読んで、万博のイメージだけがふくらんでいった。実際には3回行った時は、アメリカ館、ソ連館など見たかったけれど2時間待ちで、連れていってもらう親が無理だと思ったから、他のパビリオンを見るようにスケジュールを自分で立てた。

 

 今、映像などで見る太陽の塔は、岡本太郎のままだった。

 そばにある母の塔。青年の塔。洋式便所、やきとりなどと悪口を言われたらしいが、確かにそんな風にも見え、今見ても新しいとか古いとかではなく、岡本太郎のままで、何かすごいと改めて思う。

 

 太陽の塔の中に何があるかは、小学校3年生の時から知っていた。その雑誌で読んでいた。あの塔の中に、恐竜から何から、そんなにいろいろなものがある、というのは信じられなかった。どこか恐かった。それに、もっとテクノロジーの展示に子供は惹かれていた。父が勤めていた企業のパビリオンは、当然のように優先して予定に入れた。エレベーターの乗り方からチェックして、どうすればシミュレーションフライトの操縦席をゲットできるかを研究し、弟と2人で操縦席を確保できた。他にもいろいろなパビリオンの様々なポイントは事前に知っていた。それだけ、雑誌をすみからすみまで読んでいた。

 何で、あんなに(静かに)熱狂したんだろう。

 

 おとなしい子供で、「子供の科学」という雑誌が小4から好きになるし、小2の時にアポロが月に行ったり、アトムを物心着く前から見ていたし、ウルトラマンシリーズは欠かさず見たし、科学的なものが絶好調な時代だったという時代の空気からの影響もあるだろう。それに子供の娯楽は少ない。ディズニーランドもまだない。その頃、父の転勤で中部地方にいた。全校でも200人弱の小学校に通っていた。電車は1両。開ける時は、手であけた。2時間に1本しか来ないこともあった。1970年当時、それは田舎ということだった。ただ、中部地方で父が免許をとっていたので、万博へ行くことができた。

 

 あれから30年がたった。

 父は亡くなり、母は2年前から介護が必要になり、この展覧会に来て、それでも万博は好きだったという気持ちは、自分の中でまだリアルで、そのことを、ありありと、すぐそこにあるように思い出した。そして、会場には太陽の塔の内部を復元したものもあった。

 

 なんで、太陽の塔に行かなかったんだろう。

 今、考えても、会場のどこからも見える太陽の塔のイメージは確かに強いし、他のパビリオンの絵は描けなくても太陽の塔は描ける。何年か前、仕事の帰りに見た太陽の塔はイ記憶のメージの中よりも太く、大きく、やはり強烈だった。

 

 展覧会に来て、様々なことを思い出した。

 カタログと太陽の塔のミニチュアを買って、母の病室へ持っていった。部屋がカッコよくなると母は喜んでくれた。ああいう万博は、もうない。オリンピックも同じように、特別な意味はなくなった。ただ太陽の塔は、変わらずにある。そして、病室に置かれた太陽の塔は、知っている人は(つまりある年令以上の人)必ずといっていいほど「なつかしい」と好意的な感想をもらしている。

 

 

 

 

(2001年の時の記録です。多少の加筆・修正もしています)。

 

www.taromuseum.jp