2000年4月1日
川崎の岡本太郎の美術館へ初めて行った。
岡本太郎は、昔は「芸術は爆発だ」とか「グラスの底に顔があってもいいじゃないか」ということを言ってる変なおじさんとしか思ってなかった。ただ、万博は好きでその頃のハイテク関係のパビリオンに魅力を感じていたから、太陽の塔はどこか気になりながら、中へ入ることもなかった。それでも、その印象は確かに消えることもなかった。
それから、随分たって1993〜94年頃だったと思うが、古本屋で「今日の芸術」という岡本太郎の本を見つけた。ところどころ、そうか?と思うところがあったにしても、これから仕事を進めていく上で、一つの基準になるようなことが書いてあった。とにかく、その瞬間にうそがなく全てをかけていくこと。そして、これがベストセラーになったということにこれからの希望にもなった。
1997年頃、取材の帰りに太陽の塔を見に行った。そのそばの美術館へ行くついでだった。マンホールのふたに残ったエキスポ70のマーク。その風景の中に太陽の塔は、立っていた。太陽に向かってシルエットに近くなっていた。記憶の中よりも、もっと図太く、どっしりとして、不格好といってもいいほど太い感じがして、そしてその印象は強かった。
「今日の芸術」を読んでから、岡本太郎への印象は変わり、凄いなと敬意を表するようになった。その後、96年に亡くなった。その頃の「さよなら岡本太郎」という特集の芸術新潮を買い、読んだ。ますます、凄いと思った。それから、いろいろな展覧会で作品を見たり、いろいろと本を読んだりして、この日本で、ああいう活動、生き方をしたのは、やっぱり凄いと感じるようになった。
その後、2000年になって、水戸の芸術館での「日本ゼロ年」という展覧会でも岡本太郎を見た。それも、これからのアートの可能性をも含んだ作家の一人として作品が並べられていた。その絵画の一つは、その作品の中の目が、その目と合わせると、遠くからでも引き込まれるような気配があった。テレビでそれが最後の作品だと知った。
川崎の岡本太郎美術館は生田緑地にあった。山裾をうまく使って、その中も暗かったり、立体だったり、有機的だったりして、贅沢な空間だった。南伸坊も書いていたが、岡本太郎の絵は、岡本太郎よりはおもしろくない。というのは変わらなかったが、妻も言っていたが、立体はそのシンプルさが力強さにつながっていたし、印象も強かった。そして、改めて、その言葉と存在とその作品、そしてやってきたことに、これだけギャップが少なく、うそのない人は、やはりめったにいない。と思って、改めて感心した。
その帰りに、偶然だが、岡本敏子氏を見た。本も読んだ。この人がいなかったら、この人が岡本太郎の言葉を文章にしていたのだから、岡本太郎の凄さを分かることもなかったかもしれなかったのだ。
その後、「アカギ」というマンガを読んで、何度も読み返すほど気に入った。その中で、その主人公は、今への純度が高い、今に殉じている。と言われていたが、それは岡本太郎と同じだった。
やっぱり、生きる基本といっていいものかもしれない。特にこれからの時代には。
(2000年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。