アート観客   since 1996

1996年からアートを観客として見てきました。その記録を書いていきたいと思います。

奈良美智展「From the Depth of My Drawer」。2004.8.11~10.11。原美術館。

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奈良美智展「From the Depth of My Drawer」。2004.8.11~10.11。

原美術館

 

2004年9月16日。

 自分の引き出しの底から。

 という意味のテーマでの展覧会だった。

 それまでの自分の作品を並べて、それを自分でも再確認する、というテーマもあったようだった。

 チラシが横長の長方形。それも、おそらくは作家自身のアトリエの片隅の写真。すごくひきつけられて、とても見たいと思っていた。

 

 たぶん、土日は混むと思って平日に妻と一緒に行った。

 それでも、かなり、いつもの原美術館と比べたら、人がたくさんいた。

 妻の知人が、妻のためにと、わざわざとっておいてくれた朝日新聞の記事を読んだ。9月10日の夕刊。

 

 成功をつかんだように見えるアーティスト。だけど、行き詰りを感じているようで過去の作品を並べて見つめ直す展覧会を開いている。自分のあったかもしれない可能性を見つめ直すことで、今が正しいかどうかを振り返る。それは、今の状況へのとまどいもある。一つはアニメ世代の作品と評されること。一つは、急に高まった価格。それに関して、純粋な反応を見せるアーティストが、今回の展覧会で得たもの。それは、その記事の見出しの「過去見つめ、つかんだ確信」ということに集約されているというか、どこか、この記事が、そのストーリーに分かりやすく押し込めようとし過ぎているなあ、などと思ったが、こういう話題になることは、なんだか勝手にうれしかった。

 

 最初の部屋は、窓のように区切られたところからしか見えないようになっていた。そこに花とうつぶせに倒れた子供達と、犬や子供のお面が壁に並べられている。その窓のようなところは子供の高さに合わせているらしいこと。さらに、いつもは閉じられている中2階からその部屋が見えることが、何だか嬉しかった。子供に合わせてある、という感じよりも、自分の中の子供が反応したのだと、自分で思う。

 

 次の部屋。

 過去の作品群。

 その中で、ドイツで最初の頃に描いたという「雲の上のみんな」という作品が、個人的にはよかった。いろいろな要素がごちゃごちゃになって、迷いがそのまま出ているようで、さらには、気が抜けたような面白さまである。その部屋にある様々な作品はなんだか切実な匂いがした。

 

 そして、その展示室のすみの庭に向かって半円形のところに、ソファーが部屋の中へ向けて置いてあり、その壁には「ひよこ大使」という作品があって、そして、座ると、展示室の中の他の作品も見えるという、絶妙な場所に置いてあった。来る人、来る人がみんな座り、そして、しばらく座った後、次の人が来ると譲るというパターンが出来ているようで、何だか嬉しかった。

 

2階。

最初の部屋。

横浜で見た、泣いている子供達の立体、コーヒーカップの上。だった。

何だか、切ない。という言葉を使うのは、安直だけど、そういう空気が流れていた。そして、水際で沈没しかけたような子供が訴えかけている、と思った。

 

 次の部屋。

 ドローイング。というとかっこいいが、ようするに、ほとんど紙に描いた、落書きのようなもの、だけど、気持ちが、そのことで逆にダイレクトに伝わってくるようなもの。それが、1980年代の後半から2000年くらいのものまで並んでいる。今までで、一番見やすかった、と思う。それはガラスにはさんであって、それが机の上に並んでいるから、上からじっくり見れるという単純なことなのだけれども。

 

 そのドローイングを見ていると、80年代後半までにいったん完成し、だけど、それはそれまでの絵画的にかっこいい、とされる完成のようだからか、どうか分らないが、それを90年代に入ってから、意識的に崩すような、一見、ぎこちない作品が並び、それが、完成というか洗練されていく、という過程が見えるような気もした。

 

 そして、その途中で吉田戦車の絵とそっくりな感じのものもあって、そういうのがよかったりもしたし、「珍宝先生に聞こう」みたいなシリーズもあって(見た中では2つだけだったが)そういうのもよかった。だけど、ゼロ戦(それもたぶん特攻機)とか回転(いわゆる人間魚雷)の絵もあったりして、それは社会派とは違う意味での、気持ちが動く作品だった。

すごく、よかった。

 

 それから、お皿があったり、小さなお面が並んでいたり、片目の女の子の作品が並んでいたりで、それは最近の達成の部屋のようだった。その片目の絵は、ちょっと見ると奈良の昔の作品のようだが、少し違うかも、などと思っていると、去年の作品だったりして、それは意外だったり、もした。

 

 その奥が、昔はアラーキーの常設、それも、その奥がトイレで、その壁一面にも写真があったところ。そのスペースが、奈良の仕事部屋の再現みたいなところになっていた。曲も流れている。気持ちいい。けっこうじっくりと見た。それでも、あんまり飽きなかった。妻は、もっとじっくりと見ていた。

 

 それからミュージアムショップに行った。人がけっこういた。こんなに繁盛しているのは初めて見た。調子に乗って、Tシャツも買った。今までも、欲しかったけど、自分が着ると変だ、みたいな気持ちもあった。それに、これを着れるほどのことをしているのか?と問われるような気がして、それだけの自信がない、というのもあった。だけど、それを忘れないようにしよう。みたいな気持ちもあって、今日の作品への高揚感みたいなものもあって、あっさり買うことにした。3150円。アートTシャツとしてはそれほど高くはないと思って、それもあって、買った。妻もいろいろ買った。

 

 全体で、不思議と静かな気持ちになる作品ばかりだと思った。自分を振り返るというか、自分を見るような気持ちに確かになって、それは内省的という言葉でも言えるのかもしれないけど、たとえばドローイングのところで、家を出て、怒られたという話があって、それで父に叱られている時、ずっと後ろを向いて、本棚だけを見ていた。ということが書いてあって、そういう絵を見た時に、確実に自分の気持ちの中も反応する。自分でも、そういう気持ちが自分の中に残っているのが無気味というか、やっぱり不思議な気がしたが、そういうことを刺激する力が、作品に確実にあるのだ。と再確認できた。見る側にまで、それを促すことができるのだった。

 

 その後、美術館の中のカフェに行った。

 イメージケーキ。

 白玉が積み上げてあって、それが、子供の顔が重なっていて、涙を流すコーヒーカップに確かに見え、その発想に感心した。抽象化されているはずなのに、すぐに分ったところも含めて、感心しつつ、私は白桃のムースを頼み、二人でセットで2100円だった。すごくさっぱりしすぎていたような気もしたが、満足感はあった。

 

 それから、また展覧会の全体を見た。

 ゆっくりと、時間が過ぎて、午後5時までいた。もし時間があったら、もっといたかった。

 いい1日だった。

 夏休みの締めのような日に、すごくふさわしいと思った。

 

 

 

 

(2004年の時の記録です。多少の加筆・修正をしています)。

 

www.haramuseum.or.jp